月を追いかけて〜ショーン・ペンとニコラス・ケイジの「原風景」
『月を追いかけて』(Racing with the Moon/1984年)
アメリカには「スモールタウン」と呼ばれる町が数多くある。人口は1万人にも満たず、町のサイズはメイン・ストリートを中心に、縦横にわずか数ブロックほど。そこに住んでいる人以外は誰も知らないような、ほんの小さな町。
そんな「スモールタウン」を舞台にした映画といえば、真っ先に『ラスト・ショー』(1971)が思い浮ぶ。
2012年に惜しくも亡くなったトラベル作家・駒沢敏器は、アメリカを横断しながらスモールタウンだけに立ち寄って、短編集のような魅力を放つ物語『語るに足る、ささやかな人生』を描いた。
彼は旅の途中、ウィスコンシン州の小さな町で出会った中学生の女の子からこんな声を聞いた。
今回、『月を追いかけて』(Racing with the Moon/1984年/日本未公開)を観て、この少女の言葉が脳裏をよぎった。
そして、何よりも映画の始まりから終わりまで、何とも言えない心地良さがあった。どうしてだろう? アーバンサスペンスやSFアクションを見慣れてしまった脳には、強くそう感じたのだ。
つまりそれは、「風景」への憧憬だと思う。
家、学校、病院、墓地、図書館、映画館、廃屋。ダイナー、ビリヤード場、ボーリング場、ローラースケート場。森、湖、海、空。ピアノの音、犬の鳴き声、機関車や車やバスの音……それらが「人物」や「ストーリー」と絡み合い、すべてが調和のとれた世界の中で呼吸していた。
日本では、お盆休みや年末年始、ゴールデンウィークといった大型連休を使って、故郷へ帰省する人は多い。
そこでかつてあった「風景」が失われていく感覚に、心を痛めたことはないだろうか。しかし、都市で育った子供世代はそんなことは何も知らない。都市部の人口だけが増え続ける中、そのうち帰省行為すら珍しくなってくるだろう。
常にどこかから、タワーマンション工事の騒音が聞こえる“現在新光景”が構築される中、デジタル・ネイティヴの子供たちは、ゲームとスマホをやりすぎてしまったせいで、もはや何がリアルで否かの区別さえついていない。日本の未来を担う少年少女たちの心には、“風景のロスト感覚”は宿るのか?
──第二次世界大戦中の1942年、カリフォルニアの小さな町。
数週間後に、海兵隊に赴くことが決まった17歳の二人の若者。一人は、彼女を妊娠させてしまい動転する。一人は、人知れず金持ちの女の子に恋をする。だが、豪邸に出入りする彼女は実はメイドの娘で、期待されたイメージを振る舞うことに苦悩する。
行く者と残る者。それぞれに“語るに足る、ささやかな人生”がある。物語は二組の恋や友情を描きながら、「風景」の中で進んでいく。
戦争に現実味を抱かない少年が、病院に担ぎ込まれる兵士たちの現実を見せつけられるシーンは、この映画の真髄。ラストシーンの後、彼らの戦地での運命はどうなるか。オープニングシーンへの示唆が興味深い。
監督は、俳優でもあるリチャード・ベンジャミン。二人の若者を演じるのは、当時まだ無名に近かったショーン・ペンとニコラス・ケイジ。今のキャリアを考えると、まさに二人の“原風景”とも言える作品だ。
脇を固めるのは、同年『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』に出演して存在感を放ったエリザベス・マクガヴァン。翌年『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、1950年代のマクフライ少年を演じることになるクリスピン・グローヴァー。さらにタランティーノ作品でお馴染みとなったマイケル・マドセンなど、こちらにも注目してほしい。また、デイヴ・グルーシンの音楽も、「風景」と見事に溶け合っている。
文/中野充浩
参考/『月を追いかけて』DVD特典映像
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