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カリフォルニア・ドリーミング〜“夢の終わり”を象徴していた隠れた名作

『カリフォルニア・ドリーミング』(California Dreaming/1979年)

かつて、“約束の地”としてのカリフォルニアを背負っていた二つの都市、サンフランシスコとロサンゼルス。

──サンフランシスコは、1950年代にビート詩人たちがノース・ビーチ地区に集まり始めたのを機に意識革命が起こり、60年代後半にはヒッピーたちが髪に花を飾りながら、ヘイト・アシュベリー地区でサイケデリックロックやドラッグとともに愛の夏を過ごした場所。

1967年に大ヒットした、スコット・マッケンジーの「San Francisco(Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」(花のサンフランシスコ)が、そんな世界へ誘っていた。

──航空や映画産業が背景にあったロサンゼルスは、太陽の陽射しや青空、解放的なビーチやサーフィンといった風景が、1962年に登場したビーチ・ボーイズというポップグループによって確立されて以来、世界中の若者たちが夢や憧れを抱くようになった場所。

1965年にデビューした、ママス&パパスの「California Dreamin'」(夢のカリフォルニア)は、冬の薄暗い都会からまだ見ぬカリフォルニアを想う歌だった。

この二つの曲、カウンターカルチャーが生んだ永遠のスタンダードを書いたのは、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジのフォーク・シーン出身で、ママス&パパスのリーダー、ジョン・フィリップス。

のちにイーグルスを結成するドン・ヘンリーやグレン・フライは、まだ10代だった頃、テキサスやデトロイトという遠く離れた場所から「西に沈む太陽を眺めながら、あの向こうでは何が起こっているのか、いつも胸をときめかせていた。いつか必ずあそこへ行くぞ」と心に誓ったという。

彼らが選んだ先はロサンゼルス。二人ともラジオから流れる「夢のカリフォルニア」を何度も聴いていたに違いない。

映画『カリフォルニア・ドリーミング』(California Dreaming/1979)は、都会のシカゴから、バスで憧れのカリフォルニアへやって来た若者の物語だった。

日本公開時の映画チラシ

到着したTT(デニス・クリストファー)がまず向かった先は、海岸沿いのデュークの店。

色白で不健康そうなTTは、ジャズ・ミュージシャンの兄を亡くしたばかりで、どこか落ち込んでいる。デュークはTTを居候させることに決めるが、年頃の娘のコーキー(グリニス・オコーナー)の反感を買う。TTは彼女に一目惚れした。

それから新しい生活が始まる。ここには人それぞれのドラマがある。デュークは別れた妻で、水着ショップを営むフェイに未練が残っている。サーファーのリックの浮気性に、彼女のステファニーは悲しみに暮れている。そしてコーキーにまったく相手にもされていないTT。

物語は、サーフィンやビーチバレーを交えながら、TTがデュークの教えや仲間たちの手ほどきを受け、少しずつ土地の若者になっていく姿が描かれる。

コーキーとは無事に結ばれるのだが(グリニスのヌードが話題に)、デュークの死を経たラストシーンが切なすぎて、この青春映画を一気に名作へと高める。

印象的だったのは、デュークの元妻フェイや地元のサーファーやロコガールが、地元での生活に見切りをつけ、ハワイへ移住することに憧れを持っている点だ。

アメリカ建国200年の節目、1976年にイーグルスは「Hotel California」というあまりにも有名な曲で、「1969年以降、スピリットは用意していません」と歌って、“夢のカリフォルニア”というお伽噺に終止符を打っていた。

この映画は、もう過ぎ去った場所の物語だったのだろうか? それまで続いていた燦々と輝く太陽から一転。どしゃぶりの雨の中、二人だけで生きる決意をする若いTTとコーキーたちは何を見つめていたのだろうか? 

枯葉の季節 灰色の空
そんな冬の日 僕は散歩していたんだ
LAに行きたいよ 暖かい町へ
こんな凍えそうな日には カリフォルニアを夢見るんだ

「カリフォルニア・ドリーミング」

文/中野充浩

参考/『ロックンロールからロックへ』(福屋利信著/近代文藝社)

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