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ブリット〜映画俳優として真の自信を得た“スティーヴ・マックィーン”の完成作

『ブリット』(Bullitt/1968年)

もし「一番好きな映画スターは?」と訊かれたら、あなたは誰をベスト3に挙げるだろうか。

きっと多くの映画ファンが、この名を口にするかもしれない。1960〜70年代に掛けて映画スターの代名詞だった「スティーヴ・マックィーン」と。

「キング・オブ・クール」と称され、死後40年以上経った今も、名だたる俳優やミュージシャンからリスペクトされる銀幕の反逆児。

マックィーンは1980年に、50歳で病に倒れて亡くなってしまった。もし1980年代や90年代のスクリーンにマックィーンがいたならば、我々は映画に対して今以上にワクワクした気持ちでいたのだろうか。

あの微笑み。あの一匹狼的な役柄。男を感じさせるあの色気。そして今にも画面から飛び出してきそうな迫力。生きていれば……妄想せずにはいられない。

マックィーンの人生の序章が、恵まれなかった幼少時代や非行に走った思春期、海兵隊だったことは有名な話だ。

しかし重要なのは、ニューヨークでテレビの修理工をしながら、それまで縁のなかった演技を学び始めた時から、マックィーン物語の次章はめくられたということ。

初主演作は1958年の『マックィーンの絶対の危機』。このどうしようもない低予算映画の話が来た時、マックィーンは2500ドルを今すぐもらうか、収益の10%を分配するか、二択を迫られた。迷わず前者を選択したものの、映画は予想に反して大ヒット。1000万ドルの収益を上げたという。

同年から1961年までTVシリーズの『拳銃無宿』に出演。人気を博す。現場で主張する姿勢は「TV俳優の分際で」と馬鹿にされたが、マックィーンはブラウン管の世界に固執するつもりはなく、二度とTVには戻ることはなかった。

『戦雲』(1959年)では主演のフランク・シナトラをしのぐ存在感を見せ、『荒野の七人』(1960年)では往年のスターであるユル・ブリンナーとの確執もあった。だがここでも、ユルとのツーショットでセリフがないシーンでさえ、マックィーンの魅力が勝っていた。

『大脱走』(1963年)でスターの仲間入りを果たしたマックィーン。それでも自身を映画スターと自覚することができず、通りで視線を感じると、自分のことかと驚いたりもした。

『シンシナティ・キッド』(1965年)でのギャンブラーはハマリ役となり、続く『ネバダ・スミス』や『砲艦サンパウロ』(共に1966年)で揺るぎない人気を築く。

そんな中、自身のブロダクションであるソーラー・プロを設立。ワーナー・ブラザースと複数の映画を製作する契約を結ぶ。その第1弾となったのが、今回紹介する『ブリット』(Bullitt/1968年)だ。

日本公開時の映画チラシ

徹底的にリアリティを追求したという本作は、オールロケでセットなし。病院、ホテル、舗道、サンフランシスコの坂道、空港の滑走路などで撮影され、マックィーンもほとんどスタントの力を借りずに挑んだ。

時にはジェット機の下に潜り込み、マスタングGT390とダッジ・チャージャーのシーンのために何日も走り込んだ。なお、この有名なカーチェイスシーンは、1970年代のアクション映画の道標となって、多大な影響を与えた。

反逆児のイメージが強かったマックィーンが、体制側である刑事を演じることには賛否両論があったそうだが、映画を観ればそんな心配は消えるだろう。

『ブリット』におけるマックィーンは、“瞬間の演技”ともいうべき孤独感を貫く。刑事と言っても、やはり権力とは無縁のアウトローであり続ける。

静かでゆっくりと進んで行き、人の死や殺し一つ一つに意味があり重みがある『ブリット』で、映画俳優として本当の自信を得たと言われている。ここに長年思い描いてきた“マックィーン”が、遂に完成したのだ。

人がしないことに挑む。
けど自分が特に勇敢な人間だとは思っていない。
臆病だから自分の力を試したいだけなんだ。
限界に挑むことでね。
(スティーヴ・マックィーン)

『ブリット』DVD特典映像より

文/中野充浩

参考/『ブリット』DVD特典映像

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