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CanserX2020行ってきた~いのち編~

というわけでVol.2みたいな位置づけで。
昼食後、AYA世代の話を終えたあとのトークセッションは『いのち~生きるとは?~』。

登壇者は以下の方々。

秋山 正子 (認定NPO法人マギーズ東京 センター長・共同代表理事)
伊藤 高章 (上智大学大学院実践宗教学研究科教授 死生学専攻主任・上智大学グリーフケア研究所 副所長)
大橋 洋平 (緩和ケア医)
鈴江 奈々 (日本テレビ アナウンサー)
⻄ 智弘 (川崎市立井田病院 腫瘍内科・緩和ケア 医師・一般社団法人プラスケア 代表理事)

どちらかと言えば医療者寄りの布陣だね。
進行の鈴江アナウンサーからの提議に沿ったセッション。


自分がどう生きていきたいかを語れる場はどこにあると思うか?

●日本は本人と家族、そして医療者だけで解決しよう、という方向性の話がすごく多い気がする。そうすると、家族ができなかったから家族を責めるような話になってしまったりするが、そうではなく、コミュニティとしてどう支えていくか、という文化が社会に根付くといい。

●患者が周囲(医師、看護師、家族)の思いに気を遣い、結果、あれ、自分の気持ちに誰も耳を傾けてくれていない、という現状がある。
●家族と患者自身のギャップはよくある。がんばりたい本人、がんばらせたくない家族、あるいはその逆。
●マギーズ東京では、ご本人と家族が一緒に来た場合は、別々に話を聞いて、そのあと一緒に話をする、というセッションを設けることがある。
●傾聴プログラムで、ケアしようとはさせない。ケアされることを通して、ケアを学んでもらう。
●自分の話を聞いてもらう。自分の話ができるようになったら、人の話が聞けるようになるのではないか。自分を横に置いて話を聞こうとすると、あたまでっかちなケアになるのではないか?
●聞いてもらえると嬉しいなあ、とほっとする。聞いてもらえている、と実感できる、それが嬉しい。

死と向き合う、ってどういうことだと思う?

●みんな、生きて死ぬ。メメントモリ。だから、折に触れて考えること。

●自分を表現できることが自由だといい。死について考えることも、考えないことも、どちらも選択肢の結果表現があって、各自がどういう表現をする人なのか、わかりあえてるといい気がする。
●言葉を拾うとわかることがある。そして、表現は変化することもある。自分の表現について自由が保障されている場。
●人生会議っていうのはどこで死ぬかとか、人工呼吸器つけるとかつけないとか、そんな<瑣末な>話ではない。

●自律する、それが生きる意味ではないか。

●一人一人に自分の言葉があるはず。自律する、も固有の言葉のひとつ。だから、それぞれの言葉が出る場所が増えていったらいい。それを聞ける場がたくさんあったらいい。


メメント・モリ

チャトランでもある伊藤さんの言葉は、すんなりこころに入ってきて、そうありたい、と思える表現がたくさんあった。

メメント・モリ。死を思え。折に触れて。

でもじゃあ、「折」はどこにあるんだろうか。

「折」に触れることができる機会と場所を作る必要があるなぁ、とそう思った。

私の生きる意味を表現する言葉は、なんだろうなぁ。

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