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【雑記】親の介護・看取りについて①

前回、亡くなった母親の日記を見つけた話をnoteに書いた。
せっかくなので、親の介護と看取りについて、主観的な意見を書こうと思う。私は別に介護の専門家でもなく、医療従事者ではない。だからあくまで介護当事者として「思ったこと」を連ねるだけの日記帳として見てもらえればと思う。

重い話ばかりで申し訳ない。
だが、私の根幹となった経験であるので、書かずにはいられない。
一方で、誰もがいつか経験する話でもある。「必要はない」と思っている間に準備しておくことが肝心だと、冷静になった今なら思う。

当事者として一番思うことは、介護も看取りも「できれば考えたくないテーマ」である。これは親の死を経験した今でも変わらない。だから、そうしたテーマについて抵抗がないタイミングで読んでもらえたら嬉しい。

毎日が死闘だったが、母の死を通して、逆説的にフランクで親切な人間になれたことも確か。
自分の中で、自分という存在の見方が大きく変わった気がする。
それは介護・看取りを通して、人生のはじまり・終わりを少しだけ知ることができたからだろう。

このテーマは語ることが多いので、複数回に分けると思う。
タイトルに①と付けたけど、連続で書くのはきついのでゆっくりと書いていく。気が向いたときにでも。

【親の病気について】

まず、私が介護にあたったのは高校3年生~社会人1年目。期間にすると、だいたい5~6年ほど。母は末期がんだった。がんが発覚したときにはもうがんが播種(はしゅ:お腹や胃など、あちこちにがんが散らばること)しており、手術しても快復はしないという状況だった。
私が大学1年生のとき、最後の望みとして開腹手術を行ったが、やはり「摘出不可」ということでお腹を閉じて手術は終わった。これを呼び出されて宣告されたときが一番精神的にしんどかった。
その日を境に、病院での医療は、緩和医療に切り替わった。
私は「学生生活」と「親の介護」と「アルバイト」の3足のわらじ履きとなった。

【医療から緩和医療へ】

非常にシステマチックで当たり前なことだが、回復の見込みがない患者は病院を退院することになる。
このこと、母が退院するまでは「患者を病院から追い出すなんて!」と思っていた。TVや書籍でも、医療ができなくなったら患者を追い出す体制についてクレームに近い発言がされているものもある。
だが実際はというと、私の母は退院を望んでいたし、病院も「治療ができない」=何もしてやることができないと同義であることを教えてくれた。
それよりも「一刻も早く、患者がやりたいこと・過ごしたい時間・居たい場所にいさせてくれる」ための配慮であることを知った。
だから病院の主治医・医療スタッフとも笑顔で別れることができた。
緩和医療は病院から、在宅の訪問医へと引き継がれることになった

そこからは在宅緩和医療のスタート。
私のときは地域包括ケアが声高に叫ばれた時期であり、自治体もその体制をスタートしたところだった。遠慮なく介護保険にも頼ることにして、自宅に手すり・スロープを設け、車いす、介護用ベッドなども借りた。
訪問医が来る曜日以外は家族で母を介護する。
私の父は健在だが、諸事情で自宅にはいなかった。
だから基本的には訪問医・訪問看護師・ケアマネ・私・たまにくる親戚というメンバーで対応することになった。
とにかく必死で、ノートが何冊も埋まるくらい、介護の方法についてメモした。

そこからは怒涛の介護生活のスタートである。
細かなところは別の機会に書くので、今日はここまでにしたい。
介護生活は、一言でいえば「毎日が死闘」。
これに尽きると思う。

【おまけ】

ところで、皆さんは知っているだろうか?
介護用ベッドの寝心地が抜群であることを!

介護用ベッドが届いたとき、母に「横になってごらん!やわらけえのよ!」と言われて横になったところ、恐ろしく寝心地が抜群なのだ(2回書いちゃった)。
これは褥瘡(じょくそう:床ずれとかでできるあざ・傷)を防ぐための、人間工学の極みともいうべき設計なのだ。
体ごと包み込んでくれるあの感触はいまでも思い出すことができる。
よく家具店で売っている「寝心地抜群のベッド」とかより、介護用ベッドがいちばん寝やすいな…と今でも思う。

いま私は不眠で悩んでいるんだけど、あの介護用ベッドがあれば絶対寝られるハズなんだけどな…と思う。
医療の進歩だけでなく、福祉の進歩(この言葉で合ってる?)もすごいのだ。


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