経験は自分の中に残っている… #109
前回の続きにトライしてみようと思います。
…と書いたら、読んでもらえなくなってしまうかな?
ナラティブのつもりで書いてみようと思います。
ここは公開の場とわきまえているつもりです。読んで下さるあなた様にとっても、何かお届けできるものがあればいいな~の想いをもって書いてみます。お付き合いいただけましたら、ひじょ~うに嬉しいです(*^-^*)。
どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m。
ナラティブとは
語り手自身が紡いでいく物語。主人公は登場人物ではなくて語り手。
変化し続ける物語に終わりはなくて、ストーリーとはわずかに異なるもの。
前回の記事はこちらです。↓↓↓↓
見た目。ということから書き始めた前回でした。
私が書き出した「見た目」には、出来事をも含んでいました。含んでいて、そこを書きたかった自分までたどり着き、前回は息絶えました(-_-;)
さて、続きです。
何か事が起きて、その事象をどう捉えるか?
同じことを前にしても、人それぞれで違ってくるし、またひとりの人であっても時が違えば、それもまた違ってくる。
ひとりの人が、無意識の中で遭遇した出来事は、どう捉えるか…というより振り回されてしまうことが多いのではないだろうか?
と振り回され続けていたのは、まぎれもなく私自身です💦
時は違えど同じような出来事が何度もあって、人は「試されてる」なんて言い方もしますが、私の場合は、どんどん怒りなどの負の感情に拍車がかかっていきました。
「試されてる」って言われてもサー"(-""-)"
そのうちに苦しさに圧し潰され、自分を見つめるようになりました。
そして、いつしか捉え方とか、考え方とか、に変化が表れたような気がします。
で。
「それをそれとして見る」とは「見た目」と同義語になるでしょうか?
私は同義語のように捉え、前回「見た目」から書き始めたように思います。
書いてみようと思ったきっかけは、先日の1月17日、阪神淡路大震災が起きた日になりますが、私の心は揺れることなく日常を過ごしていました。これまでの私は、その都度心揺らしていたけれど、今回は揺らさなかったんだなって気がつきました。
noteを書き始めていたからこそ、この気づきを自分の中で意識的に捉えることができました。それでもまだ、何かが私の中に残っていたので書いてみたくなりました。
それは、あの日、私にとっての「阪神淡路大震災」が、「それをそれとして見る」状態になったということになるのかな~ということです。
「それをそれとして見る」は、私にとって何か冷たい印象のように感じているところがありました。でもそうでもないかもしれないな~。
「見た目」「それをそれとして見る」。
心揺れなかったとしても、人それぞれの心によって、やっぱり見え方・捉え方は違っているはずですよね。
前回、最後に書いた言葉
心を揺らさなかっただけで、経験はちゃんと自分の中に残っているよね…と確かめるため、「見た目」から書き始めたように思いました。
ひとつのものの見た目、ひとつの出来事、、、私の中のモヤモヤ残っていたもの、これで解消できたかな~。
読んで下さったあなた様、私の稚拙な文章にお付き合いいただきまして
ありがとうございましたm(__)m。
ナラティブなので、先はまだまだ続くことと思いますが、ひとまず
今回はこの辺で。
最後までお読みいただきましてありがとうございましたm(__)m。