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無戸籍で辛い想いをしたはずの祖母を思い出している #120

映画『ばあばはだいじょうぶ』を観て、祖母を思い出している。

映画は、富士眞奈美さん演じるばあばと孫・寺田心くん演じる同居のひとりっ子・翼くんの日常が描かれていた。

私は3人きょうだい。
映画の日常とは程遠い環境で、翼くんを羨望の眼差しでみていたが、
映画の中のばあばは祖母と重なるものを感じていた。

それはだんだんと、、、
まざまざと目に浮かんできた。


小学3、4年生ごろまで祖母と同居していた。映画と同じように
母は外で働いていたから、私たち孫の面倒は祖母がみてくれていた。
映画より、祖母の役割は負担が大きかっただろう…
でも祖母は、それを苦にしてはいなかったと思う。

面倒をみたくて仕方なかったのではないかな。
自分の息子(私の父)の時は十分できなかった子育てだから、その分…
そんな人だったと思っている。

毎朝、髪を片側にひとつ結ってもらっていたのだけど、
本当は母に結って欲しい、と私は思っていた。
母に結ってもらった方が、キュッと心地よく髪を引っ張り、何だか
決まっている気がしていたから。でも母は忙しかったのかな…
(母のイメージはどこにいたのだろう?全く浮かばない💦)
ほとんど祖母に結ってもらっていた。

何につけても、母にしてもらいたいと思っていた気がする。

それでも「ただいま~」と帰れば祖母がいて、歯医者に通う時も、
どうしても学校に行きたくない日があった時も、宿題が終わらなくて
困っていた時も、そばには祖母がいてくれた。

祖母と両親の関係はずっと良くなくて、たぶん孫の成長を理由に、
その後、祖母は家の裏にあったアパートの一室で暮らすようになった。

私は伝書鳩の役目をするようになった。
両親から祖母へ。祖母から両親へ。
伝えること、届けるものがあれば率先して私は飛んでいた。

中学高校時代は、部活に明け暮れていたから、ほとんど記憶にないが、
伝書鳩の役目はしっかりしていたように思う。

結婚の直前まで、私は週一回書道教室に通っていた。
社会人になって、夜遅い時間に通うようになっても教室を終えると、
その日書いたものを見せる名目で、毎回祖母の家に寄っていた。

いつもであれば、祖母はもう布団に入っている時間で、ちゃぶ台の横には
布団が敷いてあったが、いつもお菓子とお茶を用意して待っていてくれた。

それは、映画の中で、ばあばが小学生の翼くんにくだものやお茶をいれる姿と重なる。

映画『ばあばはだいじょうぶ』のような忘れる病気になることはなく、祖母はひとりで逞しく?生きていた…かな。

私が結婚すると連れて行った人は、祖母が結ばれた人にどこか似ていると
話していたことがあった。私たち家族は、祖父にあたるその人の写真すら
見たことのない人だったから、そうなんだ~としか思えなかったけど、いまでも私はその言葉を心に刻んでいる。

その後、祖母にとっては曾孫が生まれてそれは嬉しそうだったが、間もなく
私の伴侶がこの世を去って、、、
祖母の最晩年を私は優しく見守ることはできなかった。

いつの頃だったか記憶にないが、祖母からの手紙が残っている。

どうしてよいかわからないので
こんなふうになってごめんね

とだけ書かれている。

ほんとだよ…って思ったことを覚えている。

その頃はまだ、父に継がせたい苗字にするため、誕生から数か月後まで
父の戸籍がなかった(無戸籍の期間があった)とだけ、聞かされていた。

祖母と父。実の親子でありながら苗字は違っていた。だから幼い頃から聞かされていた話をそのままに受け取っていた私であった。

なんでそんな必要があったのかな?!
戸籍をいじるようなことをするから、子孫が苦しむんじゃないの?!

と、当時の私は思っていた。
それでも年に何度かは曾孫の顔を見せに行っていた。

最期は脳卒中で救急搬送された。意識がなかったけど、連れて行った小・中学生だった子供たちと一緒に、数分の面会をすることができた。

危ないと聞いていたから父と一晩付き添うとことにして、翌朝を迎えた。
祖母の誕生日がもうすぐだと気づいたら、何だかその日まで持ち堪えてくれるような気がして、私は一度子供たちを連れ、自宅に帰ることにした。

家に戻り、翌日は子供たちだけで学校へ出かけられるよう準備をし、朝早く
病院へ行くつもりだからと子供たちに伝えていた。

真夜中、電話が鳴って
祖母は逝ってしまったと聞かされた。

あ~私の負担を軽くするため、この時逝ってしまったんだな~
と、思えてならなかった。

後悔はなかった。

あとは何が出来る?と考えた。

浮かんできたのは、家族みんなが集まり、ワイワイと送り出してあげることのように思えて、出来る限りのことをして私は送り出した。

遺された家族はバラバラで…というか、私だけが違っていたのかな…
その後、実家へ足が向くことはなくなっていった。

それから20年近くが経つ。
この間には再び実家家族と向き合った歳月もある。
いまから4、5年前だったか…祖母が無戸籍だったから、私の伴侶とどこか似ていたその人と結ばれることができなかったのか…と思い至った。

私は自分の体験を通し、祖母の想いを想像することができるようになっていた。

人は最善と思って行ったことであっても、やっぱり月日が経ってみなければ
わからないことたくさんあるのだと知った気がしている。

それでも最善を尽くすことが、やっぱり最善の方法ではないかな…
そう思っています。

まだまだ書き足りないことありますが長くなってしまいましたので
ひとまずここまでとすることにします。


最後まで読んでいただけるものになっているのだろうか?
疑問ですm(__)m。
長々と拙い文章に目を通していただきまして、心より
ありがとうございましたm(__)m。



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