見出し画像

【父と娘】忘れたくない記憶の記録〜10代編②〜

転機が訪れたのは中3の時。
父方の地元へ引っ越すことが決まった。

私は次女の通学運賃を末っ子ながら家計を圧迫
しているのを気にして、少しランクは高いが、
歩いて行ける近所の高校を目指し合格した。
良かった!やったー!と思うのも束の間、
引越しとなり、結局無意味な努力となる。
この件があり、後にそれは祖母の同居願いが
あったこと、何の説明もない両親と祖母に腹を
立て、特に父や祖母とはこの時から会話すら
しなくなった。
通学にもうんと不便な田舎でバスの本数も少ない。毎朝バス停までは父の車に便乗し、ただ会話
もなく、父もまた話かけようとしない。便乗しそびれた日には、私もふてくされ休んだり。
祖母は満足な生活がスタートしたであろうが、当時の私には地獄だった。その後それを何年も恨んだ。そんな不便さやとにかくウンザリな高校生活を過ごしいよいよ進路を決める大事な時期が。

高校三年生のとき密かに抱いていた夢がある、
アナウンサーまたは記者。ザ・マスコミに憧れた。
内申も大幅にあげ、いざ東京の大学へ!
と最後の進路相談で母は都会への進学に難色を示し、新築の同居の家を立てたばかり、次女は大学としわ寄せはまたも私に降りかかる。資金難はにっちもさっちもいかず、私はやる気を失いそのまま進路も決まらず高校を卒業。
ふわりふわり一年バイトをし、お金を貯めただバイトする日々。
なにくそでこんな家出て行くととにかくバイトを頑張って一年半で100万程度貯めた。
その頃には都会の学校を探し、いくつか当時興味のある業界を追っかけ、しかし学費問題で大学は諦め、夜間の専門学校に行くことが決まった。
見かねた母の根負けだった。
あれから何十年も経つがあの時大学に行けなかったことを今でも恨むし、同時に母の精一杯だろうと察する。

この間、父や祖母とは一切のやりとり無し。
旅立つ日も特に父はなく最悪の関係だ。
だけどこの時祖母は背中を押してくれた。
あの時の祖母が面白がって応援してくれたことは凄く嬉しかった。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?