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1.17 「よりそう」 〜30年前、あの日の記憶〜


■あの日

 1995.1.17 5:46……今から30年前になるんですね。あの日は実家の二階自室のベッドで寝ていましたが、それは唐突に襲ってきました。ドーンと言う爆音のような音と直後に体が浮くほど下から突き上げる揺れ。そしてドガガガガ……と言う激しい横ゆれ。

「戦争か!?」

と、寝ぼけながら最初に頭に浮かんだのを覚えています。もう布団に包まって身を固くし、やり過ごす以外に何もできなかった。すごく長い間揺れていたと思います。やがて揺れが収まり静寂が……と思ったのも束の間、一階から母親の声。

「た、助けて〜」

 そして父親や姉が起き出してくる音。父親に促されて私も起きました。電気は点きません。目を凝らしてみると、部屋の棚が倒れて一面CDや本で埋まってました。仕方ないのでCDのケースを踏んでバキバキ言わせながら部屋の外へ。父親は既に一階に降りて母親を救出してました。

※オカン、騒いでましたが単に部屋のフスマが開かないので騒いでただけでした😅 後で聞いたらオカンの部屋、家の中でも一番揺れが弱く、棚すら倒れてなかったです。オカン……

 一階に降りてみると、廊下の棚は倒れ、キッチンの食器棚も倒れてエライことに。もうグチャグチャでただ呆然と見てるしかなかったです。何からやっていいかも分からない……ただ、なんかしないとダメと言う意識はあり、とりあえずお腹が減ったので床に落ちていたレーズンパンの袋を開けて食べました🥖。美味しかった😅

 とりあえず家の周りは大丈夫か!? ってことで外に出てみると、まずお隣のお家の屋根瓦がすごく落ちているのを目撃。「あー。こんなに落ちてしまって……」と思っているところに丁度夜が明けてきて自宅を見ると、お隣以上に瓦が落ちて殆どなかった💦 その他周りのお家もそう。近所の方々もポツポツ外に出てこられていて、お隣のおばあちゃんが出てこないので心配になり、窓から入って無事を確認しにいきました(ご無事でした)。お隣の飼い犬、腰が抜けて動けなくなっていました。

■この文章を書こうと思ったきっかけ

 1.17が近くなると、毎年のことですが「もうすぐ阪神淡路大震災から〜年」と言い出しました。今年も例に漏れずそうでしたが、今年は次の言葉が耳に残りました。
「震災から30年、震災を実際に体験した人も少なくなってきている中で……」

 いやいや、そんな少なくなってへんやろ! とは思ったのですが、よくよく考えると30才未満の方は阪神淡路大震災を体験していないんですね。多分今の会社で周辺にいる子たちも未体験な人が殆ど。30年とはそれほどに長い月日なんだ……と思いました。

 周りは皆、阪神淡路大震災の体験者で、結構最近の話だと思っていたのですが、上記に気が付いたので私も記憶を記録として残すことができるかも、いや、残すべきだろうと思ったので、この記事を書いています。

■震災直後 神戸へ

 家の近所に母親の姉一家が住んでいたので無事を確認しにいき、とりあえず我が家に集合。当時従姉妹の姉ちゃんは出産したばかりで0歳児が居たのですが無事でした。寝ていたところにでかいオーディオ機器が倒れてきたので、身を挺して子供を守ったと言ってました。あの子とも長いことあってないけど、今年で30才になるんだな、としみじみ。

 私の実家は兵庫県宝塚市で、阪急沿線に住んでました(今も実家はある)。阪急電車は止まってましたが確かJRが動いていて、大阪に住んでいた母親の妹も駆けつけてくれた。確か巻き寿司買ってきてくれたんだよ。美味しかった🍣(食べ物の記憶ばっかり😅)。

 1日目は自分たちのことでイッパイイッパイだったけど、2日目だか3日目だか、当時神戸、しかも灘区に住んでいた祖母のことが気になり会いに行くことになります。当時ケータイもまだそんなに普及してませんでしたし、電車が止まっている状態だったので、母親と二人で歩いていくことに。宝塚から阪急神戸線の岡本駅近くまで行くには、途中六甲山を越えていかなければダメでしたが、もうこれは行くしかない! ってことになりました。

 どれだけ歩いたのか分かりませんが、到着する頃には辺りは暗くなり始めていました。山側から見ると、倒れた高速道路のセンターラインが見え、そしてあちこちで煙が上がっていました。あんなシーン、映画以外で実際に目撃するとは考えてもいなかったし、すごく衝撃的でした。そこに至るまでにも、一階が潰れてしまった家などを沢山見ました。そもそも電車のレールがまるで飴細工の様にグニャグニャ曲がっていた。道はひび割れてあちこちから水が吹き出したりしている……もう、マジで世紀末なのでは!? って感じながら歩いた記憶があります。

 ヘロヘロになりながらも祖母と祖母の姉が住んでいた公営団地に到着。建物は結構被害が出ていましたが、幸い二人とも無事で団地の集会場のような場所にいました。あ、確か母親の妹が持ってきてくれた巻き寿司をこの時持っていったんだよな。それ以外にも何か水とか持てる範囲で持っていった気がする🎒

 祖母たちの無事が確認できたので、そこから父親の親戚が住んでいるところに移動して彼らの無事も確認。祖母たちは動けなかったので、親戚のおじさんたちに後を任せて、後日おじさんたちの家で一緒に住むことになったと連絡をもらいました。良かった……😭

■実家の被害

 神戸からは車で送ってもらって実家に戻り、そこから震災後の生活が始まります。まず私は大学生でしたが当時京都の大学に通っていたのですが、阪急電車が動かないので大学に行けない。一ヶ月ぐらい大学休みました。

 ライフラインは電気・ガス・水道が全部ストップ。電気だけはその日の内に復旧していたと思います(復旧直後、近所のお家は漏電してボヤ騒ぎになってた)。電気があるだけですごく助かった記憶があり、ホットプレートで料理ができていました。あとはカセットコンロも役に立った。

 問題はガスと水道。当然風呂には入れない。そもそも浴槽がダメージ受けてたので、直さないと水も張れない。その後数ヶ月、ガス、水のない生活が始まります。飲水等については市から給水車が来ていたのでそれをもらいに。問題はトイレなんですが、幸い近所に溜池があり、そこから水を汲んできてバケツで流してました。

※オカンが、「メダカが一緒に流れていっちゃった!」と騒いでた記憶が……オカン……

 洗濯はコインランドリー(これも結構距離があったけど)、風呂は何日かに一回銭湯に行ってました。まだ歩いていける範囲に両方あったので助かりました。そうこうしている内、先にガスが復旧。近所の水道管、エライ古いものだったらしく、結局両方が復旧するのに数ヶ月ぐらい掛かった記憶があります。

 家は半壊扱いで、親戚の伝手で大阪から大工さんに来てもらい壊れたところを修復。壁にヒビが入ったり、家の壁が剥がれてちょっと外が見えてたり、通路のアスファルトがボロボロだったり、多々問題はあったのですが、基礎がしっかりしていたお陰か柱類の問題は少なく、現在でもちゃんと建ってます。家の修復も終わって久々に自宅で風呂に入った時は感動しましたね🛀

 あの時はまだ学生だったので家の金銭事情などはあまり分かってなかったですが、市や父親の会社からお見舞金とか出たりしてたと思います。でも、大変だっただろうなあ(いや、その後大学院に進んだ私も悪いんですが🙇)

■自分のこと

 家族、親戚は無事だったのですが、個人的にはこの経験は人生のターニングポイントであったような気がしてます。フラッシュバックとまでは行かないまでも、しばらくは地震の際に心臓バクバクしてたし、色々な意味で人生観が変わりました。そもそも、誰なんだ「関西に大きい地震はこない」なんて言ってたヤツは😑

 その後なんとか大学も卒業しましたが、しばらくはあの地震のことを自分自身どう解釈して昇華すればいいのか分からなかったです。忘れられる訳でもないし、体験した人と共感しあうのも何か違う。あの瞬間の恐怖、その後の苦労、あれは一体なんだったんだろうと考えるんですが、誰が悪い訳でもなく。

 大学の時、大阪に住んでた同期が

「すまん、俺はそこまで揺れを経験してないから、他人事にしか思えなくて同情しきれん」

と、スパっと言ってくれて逆に救われた気もしました。体験してない人には分からないし、下手に体験したかのごとく同情されるのもまた、自分では嫌だったんだと思います。そう、その時の心情も経験したことも、体験してない相手には伝えきれないし、また完全には伝わらないんです。これは学びだったなあ。

 その後生きてきて、東日本大震災や大阪北部震災を体験しました。まさかこんなにでかい震災に遭遇するなんて思ってなかった……😵 東日本大震災の時は会社にいましたが、関西でも結構横揺れが長い時間続いたんです。阪神淡路大震災の記憶がよみがえりましたね。大阪北部震災の時は通勤途中で阪急電車の駅に電車に乗り込んだ直後でした。アレも怖かった……速攻で駅からでて、まだ動いていたバスで家に帰りました。

 そうだ、その時も部屋のCD用棚が倒れて一面CDだらけになってたんだった! まったく学習してねえ💦 いや、ちゃんと突っ張りの付いた棚を買って、天井との間でがっちり固定してあったんですよ。そっちは大丈夫だったんですが、床の方の棚の縦板が折れてました。そっちかー😭 多分縦揺れの時、上下に力が逃げなかったために根本の方に力が集中して折れたんだと思います。天井とは少し緩め、もしくは若干間を開けるとか、衝撃吸収のジェルを挟むとかしておいた方が良いのかも。

■皆様に伝えたいこと

巨大地震の後は長期戦です

 大きな地震が起こった直後、確かに備品等揃えておくと良いのかもしれませんが、実際には数ヶ月に渡って避難だったり不便な生活が続きます。備品だけでどうにかなる訳ではないです。近所にスーパーやコンビニがあればまだマシですが、それがなければ避難所への支援だったり、ご近所付き合いだったりが必要になります。個人でどうにかなる問題ではないんです。

 それだけに物理的、精神的に孤立してしまった場合は本当に辛い。絶望からの逃げ場がない。地域のコミュニティーが重要になると思います。仕事やら学業やら心配することは山のようにあるとは思います。しかしまずは命を守り、そして生きることが優先だと思ってください。

ペット

 ペットを飼っておられる方、ウチもそうですが、現在はペットも避難所で受け入れる義務があるはずです。ただ、多くの方が避難される場所でもあるので、ペットは車の中などの選択をせざるを得ないかも知れません。その場合、ペットのみならず車で生活する人の方も心身の健康に留意することが重要です。特に車の中で座ったままの生活をしていると、エコノミークラス症候群になるリスクがありますので。ペット用のホテルや、預けられる親類や友達、ペット可な避難所に当たりを付けておくのも重要かも知れません。

現金は重要

 最近はキャッシュレス決済が主流ですが、地震直後の電気のない状態では当然使えませんし、通信網もダメな可能性が高いです。システムが使える様になるまでの間の現金は持っておきましょうね。

コミュニティーの重要性

 最近はコミュニティーと言うとネットの中にある人も多いでしょうが、震災の直後はネットなんて機能しませんし、仮に文字や声が届いても状況は改善しません(心理的な助けにはなるので無駄ではないですが)

 それよりも地域の、人と人とのコミュニティーが重要になります。普段付き合いはなくてもいいんです。災害が起こった時、あなたは誰かに手を差し伸べることができますか? また差し伸べられたときに「ありがとう」と言えますか? 震災の直後は地域の、ご近所さんの付き合い、助け合いが本当に、本当に重要だと思いました。それがあれば、とにかく目の前にある障害を乗り越えて、その日暮らしでも一歩一歩進んでいけます。

 あなたが助かることも、また助けられることもあるでしょう。コロナ禍以降、人との交流が疎遠になりがちな層もあるとは思うのですが、元来日本人が持っている「助け合いの精神」は大事だと思います。落ち着いて、皆で命を守る行動をして欲しい、そう思います。

政府・地方自治体は助けてくれるか

 まず、地方自治体の方々は同様に被災しているのですぐには機能しません。そして政府。阪神大震災の時はその未曾有の災害から政府の機能が麻痺した様になっていたのを覚えています。あれから30年、何かしら改善されたでしょうか? 能登半島地震に対する政府の対応は本当に酷い。正直、「見捨てられた」とすら感じるレベル。もちろん、お金を出したり人を動かしてくれたり、対応はしてくれているのでしょう。しかし何も伝わってこないし、それ以外の粗が目立っている気がしてます。関西万博のあの木造のリング、あれがあればどれだけ多くの家が修復できるだろうとか、海外にバラまくお金があるなら、もっと能登のために使えるのでは? とか。

 選挙に行ってない人は論外として、あなたが投票した、もしくは投票しようとしているその人・党は次にくるであろう大災害の時にあなたを助けてくれそうですか? 正直今の政府の面々は、大災害が起きたら自分たちだけなんとか助かろうとするのではないか? とすら感じてます。今あなたにできること、それは必ず選挙に行ってい、そして「災害の際、親身になって復興に全力を尽くしてくれる、一緒に復興に取り組める」候補者を選ぶことなんですよ。簡単です。一人ひとりの意識があれば、この国は変えられます。

■最後に

 長くなりましたが、東日本大震災、能登半島地震、その他近年発生した震災からはまだまだ復興半ばな所もあります。そして経験した人の心の傷はそう簡単に癒えるものではありません。でも、次の災害はまた必ずやってくるでしょう。今、私たちにできることは「備え」です。避難グッズはもちろんですが、その後の長期戦についても備えなければなりませんし、そしてその時に自分たちにちゃんと手を差し伸べてくれる政府を作っていくのも、また国民の意思だということです。

 あの阪神淡路大震災から30年という長い月日が経過し、記憶が語られることも少なくなってきました。でも、まだあの日のことが忘れられない人も多くいますし、いまだからこそ、あの時の経験を活かして今後に繋げていくべきだと思いまとめました。

 今年の追悼式の言葉は「よりそう」。駄文ながらこの文章が、阪神淡路大震災のみならず東日本大震災や能登半島大震災の被災者の方々の心に一瞬でも寄り添う契機となり、そしてあなた地震が次に「備える」一助となればと思います。