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そしてメーテルは冥王星へ行った
(銀河鉄道999のアニメ最終回のネタバレを含みます)
昨日お風呂で。
そういえば死んだら骨になって粉々になってこの形がなくなるのだな、と思って。
形がなくなるものが今は形として、どう生きようか何をしようか、日々の仕事やお金や老後の心配や、あの人はああだとかこうだとか許さんとか、愛に喜んだり愛に泣いたりしているって、ものすごいことだなと改めて思いました。
今これを書きながら思い出したのは、『銀河鉄道999』のアニメのラストシーンなのですが、メーテルと鉄郎の別れのシーンは本当に哀しくも美しい、素晴らしいものでした。
鉄郎は永遠の生命、機械の体を求めましたが、最終的に人間として生きることを選びます。
死んだら骨になって粉々に風に散る肉体を持つ人間を生きるということ。
終わりのある命と同時に鉄郎が選んだものについて。
永遠ではない、終わりある命なのだから、この自分として生まれてきたのは後にも先にもきっと今回だけなのだから、私たちは誰にも何にも自分にも遠慮せず、夢を見ていいし、夢を叶えたっていい。
そんなふうに思います。
もちろん、勇気を持って自分自身にも。
(でも故意に人を傷付けることや犯罪は絶対にだめです。宇宙目線では良い悪いがなかろうが誰がなんと言おうが、私としては絶対にノーです)
さっき何気にメーテルを検索してみたところ、
劇場映画第2作『さよなら銀河鉄道999』において、出身が惑星ラーメタルであることが判明した。数万年に近い寿命を持つラーメタル人だが、その肉体は冥王星の氷の下に封印されているとみられる(後述)。
漫画版・テレビ版・劇場版のいずれの作品でも、鉄郎との旅が終わっても自身の旅は終わることがなく「永遠に終わることのない時間の中を旅する存在」とされている。
ラーメタル人は冥王星の氷の下に本当の自身の肉体は封印されていて、肉体が老いてきたら別の肉体に乗り変えて乗り継ぎ、ほぼ永遠に死なない、というか、死ねないそうです。
原作エターナル編では冥王星の氷の下に保存されている「私」に還らない限り無限の命を持つ存在であることが本人の口から語られている。
「私」に還ることができて、やっと有限の命を終えることができる、
つまり本当の自分自身を生きてはじめて自分の人生を生ききることができる、とも受け取れる。
事実そういう意味合いで作者の松本零士さんがこの設定にされたのかは定かではありませんが、命とはなんなのか、生きるとはどういうことなのかについて、深く考えさせられます。
何もかもが情報過多で、ものすごいスピードで消費されていく今の時代。
『銀河鉄道999』アニメ版のラストシーンはたっぷりとした時間の取り方と少ない詩的な言葉、ドラマチックな美しい音楽と間で表される二人の思い、そして未来の希望へと繋がるほんの数分間が本当に素晴らしいので、機会があればぜひご覧になってみてください。
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