ムダに無駄に厳しい私たち

この前ふと、「山手線一周チャレンジ」をやってみたくなった。

内容は簡単。渋谷から出発し、一周して帰ってくるまで山手線に乗り続けるというものだ。

僕はこの一大計画を、数少ない友人のうちの一人に打ち明けた。

帰ってきた答えは、まあ予想通りのそれだった。

「そんなことやって何になるねん?」


確かに山手線一周チャレンジをしたって、別に表彰状をもらえるわけでもなければ、大学の成績が良から優上に跳ね上がるわけでもない。

休む間もなくずーーーーーっと乗り続けていたら、暇なギネスの審査員がギネスブックに登録してくれるかもしれないが、そんなことしたって、まあ何も生まれないのは目に見えている。


先の質問に対し、僕は「なんかおもろそうやんww」と答えた。

彼は納得いかなさそうな顔で僕を見つめていた。

だってなんかこの無駄な感じがサイコーやん。「トウキョウリンカイコウソクテツドウリンカイライン」も聞けるし。「タカナワgateway」も聞けるで?ワクワクせんか?

そう言おうとして、僕は口を噤んだ。


先の一周チャレンジが本当にどうしようもなくしょうもないことなのは確かだが、それでも私たちは「無駄」に対して「ムダに」厳しい視線を注いでいるのではないか、と感じてしまうことが多々ある。

ビジネスの領域で無駄を省くのが重要なのは、僕も承知している。

資本主義社会なんて「時は金なり」が原則なのだから、利益を最大化するには無駄を徹底的に省いて、生産性を上げていくしかない。

ただ、ビジネス的な考えが私たちの生活感覚にも強く根付いてしまったせいで、今では「無駄=悪」と見做されてしまうようになったのではないか。

例えば回り道はどうだろう。「普通の」生活感覚からすれば、最短距離を取らないのは理解不能であろう。なんでわざわざ貴重な時間をかけてまで、遠い距離を進んで移動するのか。

世の中には「文化」さえ無駄なものであると断言する人もいる。クラシックなんか聞いていったい何になると言うんだい?そんなことに時間を割くなら、僕は自己啓発書を読んで自分の市場価値を高めるね。


両者とも、別に間違っているとは思わない。ただ、あまりに無駄を断罪するのは、少しせかせかしすぎているような気がするのだ。

言い換えれば、日常生活において無駄を許容する(あるいは好む)心持は、心の余裕と大きく結びついているように感じる。


例えば、先の回り道の例。回り道をすると、予想外の出来事に出くわすことがある。あれ、あそこの中華料理屋さん、古くて汚い感じだけどおいしそうだなあ。食べログにものってなかったけど、チェックしておこう。おや、こんなところに柿の実が成っているのか。ひとつ拝借しようかな(ダメです)。

こういった事柄に気づくチャンスが、回り道には存在するのだ。そうしてそれらを楽しめるのって、せかせかしてない、心の余裕がある証左のようにも感じられる。何より、なんか素敵じゃないですか?別に無駄でもええやんけ。


そもそも無駄って本当に無駄なんだろうか。僕は無駄なりにも、何かしらの役割を果たしているように感じている。

無駄は心の緩衝地帯だ。心に余白をセットしてくれることで、心の柔軟性は高くなる。せかせかしていないから、物事にどっしりと構えて取り組める利点もあるだろう。


それでも無駄が許せない人がいれば、僕から一つ質問をしたい。必ず死ぬという特典付きの、人生という約80年にわたる壮大な規模の無駄は、いったいどう説明するのでしょうか?

たぶん彼らは人生が無駄ではないことを力説するんではないか。いやいや、別に無駄でもいいじゃん。そんなムキにならなくても、無駄には無駄なりのいいところがあるもんよ。


あーぁ、とりとめもなく書いちゃったせいでムダに長い文章になっちゃったよ。やっぱ無駄が多いからかな。


でもまあ、いいよね?




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