「桐島、部活やめるってよ」タイムカプセルのような小説でした。
この歳になって、初めて朝井リョウを読んだ。
朝井リョウさんとは同じ年に生まれた。だから当然デビュー当時から知っているし、いつかは読んでみようと思っていたのだが、なぜか腰が重かった。
それが去年「正欲」が本屋で平積みになってるのを見て、無性に読んでみたいと思った。なんだかそそられる、いかにも自分好みの雰囲気を醸している。
ただやっぱり新作からいきなり読むより、過去の代表作を何か読んでからにしようと、図書館で「桐島、部活やめるってよ」を借りて読んだ。
最初の10頁ほどで、これは自分にとって特別な小説になるという予感があった。今まで読んできた小説の中でもとりわけ記憶に残る作品になる、と。
この本は高校生活の日常と空気と、光と音と色彩と、建前と本音の全てを閉じ込めた、タイムカプセルのような小説だった。本書を開く度にあっという間に高校生に戻っていて、多分あの当時からほとんど成長していない内面と対峙させられた。
それに“桐島”はバレーボール部なのだが、自分も高校時代バレーボール部だった。そして桐島と同じ部に所属する生徒の話が当然のように出てくる。他の小説と同じ距離感で読むのはもはや不可能だった。
著者と同じ時期に高校生をしていたのだから当然といえば当然なのだが、それでもここまでリアルな体感を表現し得るものだろうか、この人の作品ってみんなこうなのか?とほとばしる才能に圧倒されつつ読み進めた。
高校生というのは大人を目前に控えた学生であって、だから高校は大人の社会に近い空気になる。端的に言えばヒエラルキーができる。
僕の高校時代はピラミッドの一番地べたに近い場所だった。勉強もスポーツも部活も友達付き合いも、何一つうまくいかなかった。バレーボールも当然、ド下手だった。口が非常に狭い大きな瓶に閉じ込められて、そこから何とか出ようともがき続けているような3年間だった。
そんな卑屈で常に周りの顔色を窺って過ごしてきた高校生の自分に引き戻されるのは苦痛を伴った。特にバレー部男子の話と底辺に所属する映画部男子の話は、当時の感情をまざまざと思い起こさせ、読み進めるのが困難だった。決して読みづらい文体ではないのだが。
映画部員の話を抜けると、今度はピラミッドの比較的上部の話が出てくる。自分と一定の距離が出来ると、今度は貪るように読み進めた。特にハンドボール部員の女子とその母親とのエピソードは感動的だった。
そして一番自分と距離が離れている、最上部の男子の話、これがやっぱり一番共感はしづらい。スポーツも勉強も学校生活も、とりあえずやれば何でも出来てしまう学生というのを全く経験したことがないから仕方がない。
底辺にいる学生の忸怩たる思いと、上層に位置する学生の密かな優越感と空虚感、両方の気持ちを著者は掬いとる。器用な人の気持ちはわからない、と読み進めていくと、最後には底辺の学生と上層部の学生を繋ぐ邂逅がある。ヒエラルキーなんて初めから存在していないことを、静かに伝えてくれている。
この小説の文庫版最後の章は、単行本には入っていないものらしい。勝ち組視点でラストを飾る単行本のパターンも美しい締めくくりだと思うが、文庫版の、中学生の視点で終わるパターンもなかなか粋で、個人的には読んだのが文庫版で良かったと思った。
書かれていることはあくまで日常的なのに、読んでる時の感情はジェットコースターのように乱高下していた。高校生のこれだけ複雑で、自分自身でも出所がわからない感情を表現する言葉を、著者が弱冠19歳にして獲得していたことには頭が下がる。
タイムカプセルというより、僕にとってはタイムマシンのような小説だった。でも読者の年代を選ばない、間口の広い小説でもある。高校生の未熟で不安定で、尊大であると同時に卑屈な感情って、きっと昔からあって、今後も受け継がれていくのだと思う。