人生の相対性理論(29)学習の相対性
これと同じ息苦しさを、「フクシマ」以降活発になった「放射能論争」にも感じました。
セシウム137やストロンチウム90といった元素はもともと自然界には存在しなかったもので、人間がそうした放射性元素とつき合うようになってからの歴史は極めて浅いものです。確実な結論を出せるようなデータはあまりありません。
1時間に何シーベルト以上被曝したら確実に死ぬというデータはあっても、低線量被曝や体内被曝と健康障害との関連は、まだまだ分からないことだらけです。それなのに、安全だ、危険だ、と決めつける発言が多すぎました。
「科学的には ……である」といいきる学者たちの根拠も、よくよく確認すると、自分たちが学んだ書物や論文にそう書いてあるからというだけで、自分自身が実践的なデータを持っていないことも多いようです。
人から学んだ知識と自らが体験して得た知見とでは、根拠になるものが違います。
教科書にそう書いてあった、というのは、他の誰かの研究や業績が根拠になっていますが、その誰かの研究成果を他の何かと相対化しているでしょうか。無意識のうちに絶対化している危険性はないでしょうか。
私は福島県の川内村の自宅で 25㎞離れた原発が爆発するシーンをテレビの映像で見て、取るものも取りあえず逃げ、その後、放射線量計を持って全村避難中の村に戻って半年生活しました。
この経験から、身を持って体験することと相対させる知識は、単に本などの情報から得る知識とは違うのだということを実感しました。
私の場合、若いときに資源物理学者の槌田敦氏のインタビュー記事をまとめたり、核エネルギー問題をテーマにした小説を書くためにいろいろ勉強していたので、一般の人たちよりは放射性物質や原子力発電に対する予備知識があったと思いますが、実際に目の前で起こっていることに対して分からないことだらけでした。
川崎市の仕事場に避難した後に猛烈な勢いで毎日情報収集し、不足していた知識を補い、その上で村に戻って、実際に線量計を持ってあちこちに出かけて線量を計ったり、池のオタマジャクシの育ち方が少し変なのではないかと不安になりながら観察したりといった経験を、常に情報や知識と相対させていました。
体験した中で出てきた疑問に対して、答えを与えてくれそうな情報を探すということの繰り返しです。
その中で、これはどの程度危ないのか、この情報はどこまで信用できるのか、すべて勘案し、熟考した上で、自分は今どう行動すべきなのかということを決断し続けました。
もちろん、明確な答えは出ません。調べれば調べるほど、経験すればするほど「最終的にはよく分からないな」という結論に達します。
知識や情報だけでは役に立たないのではないかということを痛感させられたのです。
知識や情報は、それを実体験と相対化させて初めて意味を持つし、蓄積することで思考や行動の細かな修正も可能になるということを学びました。
また、最終的には知識よりも本能や生の五感で感じ取る能力が大切なのではないかとも感じました。
しかし、学者たちの中には、今でもその逆の行動をしているように見える人たちがかなりいます。先に知識と情報を持っていて、それに照らし合わせれば今起きていることはこう説明できると断定口調で言う人がかなり多いと感じます。
これは2020年に起きたCOVID-19パンデミックでも同じことを感じました。
あまりにも自信に満ちた態度で断定口調に言い放つ「専門家」と呼ばれる人たちに、私は相当違和感を覚えています。
あなたがたの自信を支えている知識は、人類が今まで経験してきたことの一部にすぎないでしょう。しかも、それは科学という「学問」の中での話でしょう……と言いたくなるわけです。
私は基本的に、この世界のあらゆる現象を科学「だけ」で説明できるという態度は傲慢にすぎないと思っています。
科学は人間が体系立てて作ってきた学問ですから、理解する能力のある人間なら100%理解できます。
しかし、人間自身は不完全な存在ですから、科学もまた完全ではないでしょう。
科学的立場に立てば、人間は一生物種にすぎません。人間の能力が優れているというのは、犬や猫に比べて、という相対性の中での話です。
世界の一部にすぎない生物である人間が、世界のすべてを説明できると考えるのは傲慢すぎます。
この世にはまだまだ分からないことが無数にある、と認める態度こそが真に「科学的」な態度ではないでしょうか。