人生の相対性理論(26)煩悩と苦悩の相対性
しつこいようですが、自分の存在以外は絶対化できないのですから、愛の基本は「自己愛」です。
自分が誰かを勝手に好きになる。好きになると自分のものにしたくなり、束縛する。これは欲望の一つにすぎません。
仏教では、相手を束縛したくなる欲を「欲愛」、執着することを「割愛」などと呼んでいます。
誰かを好きになったとき、その相手も自分のことを好きになってほしいと心から願うのは一種の「煩悩」であり、その相手が自分のことを好きになってくれないことで「苦悩」が生まれます。
このように、愛の相対性は煩悩と苦悩の相対性につながります。
煩悩というのは仏教から生まれた言葉です。
「人間の心身の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望,他者への怒り,仮の実在への執着など」(三省堂大辞林)と説明されます。
お金があればあれもこれもできる(煩悩)、でもお金がないからできない(苦悩)。
美しい容姿に生まれていれば人からもっと愛されたはずだ(煩悩)、でも不細工な容姿であるためにもてない(苦悩)。
……人生にはいくつもの煩悩があり、それに相対する苦悩があります。
苦悩からいかに自由になれるかというのは宗教の共通したテーマです。
苦悩は煩悩から生まれる。だから、煩悩をなくせば苦悩も生まれない……という発想は、釈迦が説いた原始仏教にも見うけられます。
釈迦の言葉を集めた経典の一つとされる『自説経』の中にも、煩悩がなければ苦悩は生まれず、苦悩を消すことは煩悩を消すことである、といった意味のことが出てきます。
しかし、仏教の継承者たちの中には、「煩悩を完全になくすことは不可能だ」「煩悩があるからこそ人間なんだ」「煩悩があるからこそ、それを乗り越えよう、悟りを得ようとする気持ちも生まれる」と考える者たちが出てきます。
解脱や菩提心(悟りを開いた後の静かな境地)といった、苦悩を超越した状態も、煩悩が最初にあってこそのものであり、煩悩と菩提心は表裏一体のものである、という考え方です。これは大乗仏教になってから出てきたもので「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」などと呼ばれます。
苦悩だらけの人生からどのようにすれば解き放たれるか、という方法論において、各宗教は少しずつ違った個性を見せます。
煩悩を解き放ち、身軽になって川の向こう側(彼岸、涅槃)に渡りましょうというのが原始仏教なら、その川を渡るには一人では難しく、大きな船に乗り合わせたほうがいいから船や海図を用意しましょうというのが大乗仏教でしょうか。
人は死ねば仮の入れ物である肉体は滅びるが、神の教えを守ればめぐみによって魂は復活し、永久の平安(天国での永遠の命)が約束される、というのがキリスト教。
……極めてざっくりいえばそんな感じだと思います。
多くの人はより具体的な方法論を求めるので、この戒律を守りなさいとか、お題目を唱えなさいといった「教え」が流布され、そうした単純化された方法論を取り入れた宗教は広まる、という傾向があります。
これは宗教の優劣をいっているわけではなく、宗教とは概ねそういうものだ、といいたいのです。
私は、宗教に救いを求めることを否定するつもりはさらさらありません。
しかし、宗教を安易に鎮痛薬や精神安定剤代わりにするのは危険です。
また、煩悩と苦悩は相対関係にあるが、無理にどちらかを消す必要はない、と思うのです。
過度のストイシズムもまた、ドラッグ中毒のような危険性や脆弱性をはらんでいると思うからです。