島原の乱と鎖国・禁教令
イシコフ: 江戸徳川政権が南北アメリカ大陸の先住民社会のように破壊されないで済んだこと、1637年に起きた島原の乱以降は大きな内乱もなかったことが、世界史的に見ればいかに特別なことかということを説明したわけだけれど、実は徳川政権に徹底的な鎖国やキリスト教の禁止をさせることになった最大の事件が島原の乱だった。
天草四郎伝説や女子供も含めた一揆軍全滅という衝撃的な内容が有名だけれど、実は今もよく分かっていないことが多い、謎だらけの事件なんだ。
凡太: 最後に城に立てこもった3万人以上の人たちを皆殺しにしたことで、幕府の非情さ、残酷さが非難されますよね。無茶な年貢取り立てやキリスト教徒への残酷な弾圧に耐えかねた民衆が起こした一揆が、幕府軍によって徹底的に叩きつぶされたというように習いましたけど……。違うんですか?
イシ: いや、何がどのように起きたかという時系列の説明は、概ね合っていると思うよ。廃城に立て籠もって殺された人たちは本当に気の毒で、想像するのも怖ろしいことが起きたことは間違いない。
ただ、あれを「宗教戦争」ととらえるのは少し違うように思うんだ。
あの地の領民にキリスト教徒が多かったことと、領主のキリスト教徒弾圧のやり方があまりにも残虐だったことで、キリスト教弾圧の象徴のように思われているけれど、最大の原因は、島原藩領主となった松倉重政・勝家父子が常軌を逸したような悪政、非道の限りを尽くしていたことであって、基本的には食い扶持を失った浪人なども加わった農民一揆という性格のものだね。
一揆に加わった領民全員がキリスト教徒だったわけではないし、領主がまともな人物だったら、あんなことにはなっていなかったはずだよ。
時系列に沿って確認していこうか。
そもそも、最初にキリスト教禁止を打ち出したのは豊臣秀吉なんだよね。
永禄6(1563)年、長崎の大村純忠が家臣ともどもイエズス会の宣教師から洗礼を受け、日本初のキリシタン大名になった。
その後のキリスト教関連の出来事をざっと並べると、
1568(永禄11)年 京都に南蛮寺(キリスト教会)ができる
1570(元亀1)年 ポルトガル船が長崎に来航。貿易が始まる。当時の主な輸入品は生糸、砂糖、香料、火縄銃、薬など。輸出品は金、銀、銅、樟脳、陶器など
1578(天正6)年 大友宗麟(豊後藩主)が洗礼を受け、領民を強制的にキリスト教に改宗させる
1579(天正7)年 イエズス会東インド管区巡察師ヴァリニャーノ神父が口之津に来航。信者が急増し、口之津港は南蛮貿易の拠点になった。鉄砲・火薬が本格的に入ってきて国内製造も始まる
1580(天正8)年 有馬晴信(日野江藩初代藩主)が洗礼を受け、家臣や僧侶にも改宗を強制
1581(天正9)年 キリシタンが15万人規模に増大。しかし大半は先祖神と結びついた「日本風キリスト教」だった
1582(天正10)年 キリシタン大名となった大友宗麟、大村純忠、有馬晴信がローマに少年使節団を派遣
……と、徳川政権成立前にすでに西日本を中心にキリスト教は着々と根を張っていたんだね。
初のキリシタン大名となった大村純忠は当初、ポルトガル人との貿易で地元の経済振興を図るためにイエズス会宣教師に接近したようだけれど、仲よくしているうちにすっかり教化されたのかもしれない。ついには大村藩6万人全員をキリシタンに強制的に改宗させてしまい、領地をイエズス会に寄進してしまった。つまり長崎の大村藩は「イエズス会領」になってしまった。
凡太: それはビックリですね。
イシ: そんなことが連鎖的に広がったら、日本は戦わずして外国人に支配されてしまう、つまり植民地になってしまうわけだからね。
それを知った秀吉は驚いて1587年にバテレン追放令を出した。
ただ、このときはポルトガルとの貿易を重視していたから、宣教師による布教は禁止するけれど、キリスト教に入信した者を処罰するとかはしなかった。
だけどその後、1596年に土佐に漂着したスペインのサン=フェリペ号という船の船員が「スペイン国王が、キリスト教布教により他国を征服する目的で宣教師を送り込んでいる」と話しているという情報が秀吉の耳に入る。
これはとんでもないことになると恐れた秀吉は、再度禁教令を出して、京都にいたフランシスコ会の宣教師3人と修道士3人、日本人信徒20人を捕らえ、長崎に連行して磔にしてしまった。
フランシスコ会はイエズス会と同じカトリックの修道会だけれど、その当時、日本での布教活動を巡ってイエズス会と対立していたという話もあるようだね。
それまでは「南蛮人」とひとくくりにしていたものが、キリスト教会の中でもいろいろな派閥があったり、スペイン、ポルトガル、オランダの勢力争いがあったりといった複雑な様相を呈していることも分かってきた。
鉄砲や大砲など、外国から伝わった銃火器の威力を嫌というほど分かっていたから、それを手に入れるための貿易窓口は残したい。でも、すでに大量の銃火器や大型船舶を持っている国に征服戦争を仕掛けられたらたまらない。キリスト教布教がその「下馴らし」かもしれないと警戒するのは当然だね。
そういう流れがあって、徳川政権になってからも、1612年に大御所となっていた家康は二代将軍・秀忠を通してキリスト教禁止令を出した。
当時の島原藩藩主はキリシタン大名だった有馬晴信の息子の直純。有馬晴信は領地をイエズス会に寄進してしまった大村純忠の甥。有馬晴信の息子の直純も洗礼を受けていたのだけれど、徳川からキリスト教禁止令が出たことでそれに従い、家臣や領民にもキリスト教を捨てるようにと説得した。しかし逆に強い抵抗に遭ってしまう。棄教を拒んだ三人の重臣は家族ともども火あぶりにされてしまった。
凡太: やることが極端ですね。宗教が関係するとそうなってしまうんでしょうか。
島原の乱のビフォー/アフター
イシ: 宗教が絡むと極端になるというよりは、富や権益を巡る争いが根底にあったんだよ。
この時期は、幕府が大名に海外貿易を許可する「朱印状」を出して個別に海外渡航を認めていた。
中国や東南アジアに近い九州の大名はそれによってかなりの利益を上げていて、有馬晴信もその一人だったんだけど、ポルトガル領になっていたフィリピンのマカオで有馬晴信の朱印船の水夫たちがポルトガル船の水夫たちといざこざを起こして、マカオの総司令官アンドレ・ペソアに鎮圧され、60人の死者を出すという事件があった。
ペソアは事件の顚末報告とポルトガル商船との取り引きルール改善を訴えるために自ら江戸に乗り込もうとした。それは長崎奉行の長谷川藤広とイエズス会に止められたのだけれど、藤広はペソアに報復したいと考えていた有馬晴信をたきつけて、家康にペソアと商船の捕縛を請願させた。
家康がその請願を受け付けて晴信に報復を許可した結果、命の危険を察知してマニラに戻ろうとするペソアの船は晴信によって攻撃され、ペソアは自らの船の爆破して自決した。
凡太: 幕府はなぜポルトガルとの関係を悪化させるようなことを晴信に許可したんですか?
イシ: そのへんはよく分からないけれど、ポルトガルに危機感を抱いていたのかもしれないね。すでにスペインやオランダとの関係もできつつあって、貿易はポルトガル抜きでもできると踏んだんだろう。
でも、このときに監視役として派遣された岡本大八という本多正純の家臣が幕府発行の朱印状を偽造までして正信から6000両を騙し取るという不正事件も起きた。
さらには長崎奉行の長谷川藤広は家康からの信任が厚かったポルトガル人のイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスにあらぬ罪を着せて密告し、マカオに追放し、イエズス会と対立していた。
大八の不正は発覚して、拷問にかけられたんだけど、そのとき、大八は「有馬晴信は長崎奉行の長谷川藤広に恨みを抱いていて、暗殺しようとしている」などと密告した。
凡太: なんだかもう、ドロドロ、グチャグチャですね。
イシ: そうなんだよね。
結局、大八は慶長17(1612)年3月に朱印状偽造の罪により駿府市街引き回しのうえ火あぶりの刑。晴信も島原藩所領没収の上、切腹が命じられた。皮肉なことに、大八も正信もキリシタンだった。
キリシタンというだけで一致団結していたわけではないことがよく分かるね。
大名や役人たちは自身の権益や地位のことばかり考えて騙し合いや不正を重ねるし、キリスト教に入信すると家臣や領民にもキリスト教への改宗を強制する。
それを受け入れた領民たちも対応は様々で、多くは古くからの祖先信仰や地主神信仰を捨てるわけではなく、適当にキリスト教の説く神をブレンドさせたようなゆるい信仰心で落ち着いていたらしい。
でも、一部では先鋭化して、寺社を襲撃して僧侶を殺害したり仏像を破壊したりする暴徒もいたようだ。
それと、有馬氏が取りつぶしになったことで、有馬氏の配下の武士は食い扶持を失い、農民に戻るしかなくなった。
元和2(1616)年に松倉重政が有馬晴信の旧領だった肥前日野江4万3千石に移封されると、それまでの原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始。これが禄高4万3千石には釣り合わぬ豪華版で、その費用を捻出するため、幕府には実際の石高の倍以上の石高だと報告したため、領民の生活は破壊された。
一方、キリシタンに対しては当初は黙認に近かったのが、幕府が禁教令を厳しくしたのに応じて、弾圧を強めていった。
改宗しない領民には顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す、指を切り落とす、雲仙地獄で熱湯で拷問・処刑するといった常軌を逸した弾圧を開始した。
かつて領主によってキリスト教に改宗させられた領民たちは、今度は禁教令でキリシタン狩りで恐怖と屈辱を味わうという理不尽極まりない運命を背負わされた。
重政はさらには将軍・徳川家光にキリシタンの根拠地であるフィリピン、ルソン島を攻略すべしと上申し、家臣をルソン島に派遣して状況を偵察させたり、派遣する軍隊の武器を調達するために、領民にさらなる重税を課した。
重政は寛永7(1630)年に急死したが、後を継いだ息子の松倉勝家はさらにとんでもない領主で、なんと「九公一民(税金9割)」という重税を課して、払えない領民を拷問、虐殺するなどしながら、重政のルソン征服計画も継承して準備を進めたため、家臣も次々に逃げ出してしまった。
こうしたトンデモ父子の馬鹿政治のおかげで天草・島原の領民たちのストレスは溜まりに溜まり、ついに限界点を超える。
飢え死にや拷問で苦しんで死ぬか、非道な領主と戦って討ち死にするか、という二択を迫られるような感じだったんだろうね。
凡太: 松倉父子もとんでもないですけど、それにのせられていた幕府もどうかと思います。朝鮮出兵をした秀吉と変わらないじゃないですか。
イシ: 家光の代だねえ。どうも三代目というのは甘ちゃんのボンボンが多いという気がするねえ。
少し時間を戻すと、島原に松倉重政が移封された1612年の2年後、徳川は大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家を滅亡させ、統一政権の総仕上げにかかっていた。まだ家康が大御所として政治を見ていたときだね。
当時の日本国内のキリシタンは36万人にまで膨れあがっていて、徳川政権にとってキリスト教が脅威となっていた。
元和9(1623)年には将軍が家光に替わり、すぐにスペイン船の来航を禁止している。
寛永13(1636)年には、長崎に出島を造成して、ポルトガル人は貿易関係の者だけをそこに移し、宣教師などは全員追放した。
そのタイミングで起きた島原の乱。
目が届きにくい九州で起きたことや、制圧のための軍を送ってもはね返されるほど強力な一揆だったことで、家光としてもかなりパニックになったと思うよ。
凡太: それにしても、廃城に籠もっていた数万人の民衆を皆殺しにしたことは正当化できません。
イシ: もちろんそうだ。時間をかけて懐柔策で鎮圧することだってできたはずだからね。
ただ、女子供まで皆殺しにした背景として、豊臣家の末裔が紛れ込んでいたという噂があったからだとも言われている。
凡太: 豊臣家は大坂の陣で滅んだんじゃなかったんですか?
イシ: これまた明智光秀生存説みたいなもので真偽のほどはまったく分かりようがないんだけど、一揆軍の首領となった天草四朗は、実は豊臣秀吉の孫だったという説があるんだよね。
凡太: ええ~?
イシ: 大坂夏の陣で、豊臣秀頼と母親の淀殿は自害したと伝えられているけれど、その最期を見届けた者はいないし、遺体も見つかっていない。
当時の京都では「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という謡が流行していたともいう。秀頼はなんとか大坂城を脱出して九州まで逃げて、島津氏に匿われたという説。
真田幸村が秀頼をつれて薩摩まで逃げたという話は、真田家の本拠地である信濃・松代に残る『幸村君伝記』にも書かれているらしい。
天草四郎については様々な伝説があって、未だによく分かっていないんだけど、本名は益田時貞といい、秀吉の家臣だった小西行長の家臣だった益田好次の嫡男だといわれている。
鹿児島には、天草四郎は「豊臣秀綱」という名を名乗っていたという資料も残っているんだとか。
もちろん真偽のほどは分からない。ただ、秀吉の孫だという話が当時から一揆軍の中にあったのだとすれば、嘘だとしても結束のシンボルとして祭り上げるためには極めて有効だったはずだ。10代半ばの少年がカリスマ的総大将になっていたという不自然さも、それを聞いた徳川が徹底的な殲滅をはかった心理も理解できるかな。
当時の徳川家にとって豊臣の亡霊は怖ろしいものだっただろうから。
凡太: ニニギ系天孫族がニギハヤヒ系天孫族の祟りを恐れたようにですか?
イシ: そうかもしれないねえ。ニニギ系はニギハヤヒ系を滅ぼした後も祟りを恐れてニギハヤヒ系の神を祀ったりしているけれど、徳川家は豊臣家を根絶やしにすることで亡霊から逃れようとしたのかもしれない。
しかしまあ、島原の乱から学ぶべきことは、統治者が馬鹿だと大きな悲劇を生む、ということだよ。
島原の乱は、領主がまともだったら回避できた可能性が高い。領主に領民たちを守るという意識がまったくなくて、ただただ圧政を敷いていた。利権争いや自分の出世、保身だけで動いていた。それが最大の原因。
凡太: 領主が馬鹿だったから起きた大悲劇だと?
イシ: ザックリ言えばそうだな。領民たちの生活や気持ちを尊重した政治をすれば起きるはずがなかった。
乱の後、全容が見えてくると、松倉勝家は江戸に護送され、斬首刑になった。江戸時代で大名に切腹ではなく斬首刑が言い渡されたのは後にも先にもこのときだけだ。幕府も「なんというとんでもないことをしてくれたんだ」と怒り心頭だったんだね。
権力側にいる何人かの馬鹿のために大勢の民衆が理不尽な目にあう。これは現代においてもまったく同じだよ。
徳川政権は、大名同士の抗争が二度と起きないようにと世襲制を重視したけれど、世襲制の弊害として馬鹿殿やサイコパスが権力者になってしまうと大きな惨劇を生むことにもなる。治世というのは難しいね。
島原の乱は徳川政権や諸大名にも大きな教訓をもたらしたと思うよ。その後の200年、領民のための治世を心がけた大名や役人も少なくなかった。
ダメ領主が出ても、農民は武力以外の方法で窮状を訴える「非武装一揆」のような方法をとるようになり、領主側もそれが幕府に知られると改易などを命じられるため、なるべく要求に応えるようになった。
支配する側もされる側も「島原の乱のようなことになったら大変だ」と肝に銘じたからかもしれない。
……せめてそんなふうに考えないと、とてもやりきれないよね。
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