「現実世界」なんてない? 用務員・杜用治さんのノート(9)
2006年1月20日
元山くんから量子の話を聞かされた後も、俺はずっと、自分が存在している「この世界」の正体について考え続けていた。
改めて、かつて森水校長が言っていたことを思い出しながら、整理してみる。
我々が見ている「世界」は、そもそも我々が「見ている」通りの世界なのか?
まず、次の命題を掘り下げてみよう。
1. 我々人間が「見ている」「見える」と思っているものは、物体そのものではなく、物体が反射した光を目~視細胞~電気信号に変換~脳へ……と伝え、脳がその信号を処理して「そこに存在している」と感じるにすぎない。
つまり、「見えている」と思っているものは「実体そのもの」ではなく、加工された「情報」である。
例えば、人間の目と犬の目、猫の目、烏の目は全部違う。世界の見え方が違う。これは「同じ世界」に存在していると言えるのだろうか?
聴力も違う。
人間が聞こえる周波数は、せいぜい数十Hz(ヘルツ)から2万Hzくらいだ。歳を取るにつれ、高音域はどんどん聞こえなくなるのが普通で、若者が聞こえる虫の声、鳥の声が老人には聞こえなくなったりする。
ところが、犬は逆に、歳を取ると中低音域が聞こえづらくなる。人間に聞こえない2万Hzの音は聞こえるのに、人の話し声が聞こえなくなったりする。
人間と犬では寿命が違うから、時間の流れ方も違うだろう。
つまり、同じ物理世界に生きていながら、認識している「世界の要素」が違う。
我々は、「世界」は一つだと思っているが、それもまた脳の働きによる「錯覚」なのではないだろうか。
しかし、そんなことを言えば、すぐにこういう反論がくる。
人間と犬が、見え方、聞こえ方が違うとしても、お互いに触れあうことができる。さらには、嬉しい、怖いといった感情を交流させることもできる。つまり、見え方や聞こえ方が違ったとしても、今、目の前の犬の頭を撫でている人間と撫でられている犬が物理的には「同じ世界」に存在していることに疑いはないではないか。
そこで、次に「同じ物理世界」と信じているこの世界も、実は「同じ」ではないかもしれない、という想像を膨らませてみる。
2. 物理学では、あらゆる物体は「素粒子」と呼ばれる、大きさが無視できるくらい小さな「点」がスカスカの状態で集まっているもの、と説明されている。
大きさが無視できるくらい小さな点がスカスカの状態で集まったものが「物体」の正体なのに、物体同士はぶつかって跳ね返ったり、指先で触(さわ)れたりする。スカスカ同士なのに、なぜ通り抜けないのか?
それは素粒子が不規則に「動いている」からだと説明される。
つまり、素粒子と素粒子の間はスカスカだが、素粒子が絶えず不規則に動き回っていることで「雲」のような状態が生じ、その雲同士が接近すると、これ以上は近づけないという薄い壁のようなものが生じて反発し合うのだという。だから我々は物体に「触る」ことができる。
……しかし、こうした説明は、我々の生理感覚からすると理解しがたい。
我々が認識している「世界」とは、あまりにもかけ離れたものではないか。
そもそも「触る」という現象ひとつとっても、もしかすると人間と犬ではまったく違う感触、いや「違う認識」の行為かもしれない。
今俺が目の前にいる犬の頭を撫でているとする。その犬が感じている「触られている」という感触は、俺が誰かに頭を触られるときの感触とはまったく違う種類のものかもしれない。もしかしたら触覚というよりも、言語による意思伝達や、音楽を大音量で聴くような種類の「認識」なのかもしれない。
3. 我々が認識している「物理世界」というものも、所詮は脳が「こう理解すればいい」「こう感じれば都合がいい」と決めて我々に錯覚させている「仮想空間」なのではないか?
我々が生きていると思っているこの世界は、我々が見ている……つまり我々の肉体(脳)がそう認識している間だけ、ある一定の秩序や法則に従って動いていると思わされている「仮想現実」ではないのか?
脳が、外からの様々な信号を処理して、仮想現実世界を生成し続けているのではないのか?
それを我々は「物理世界」という確実な存在として思い込んでいるだけなのではないか?
そう考えていくと、我々が認識している「物理世界」「現実世界」は、我々の「脳」と不可分のものではないかという考えに行き着く。
人間の脳という総体的な意味ではない。我々一人一人が持つ、固有の脳と不可分の世界、という意味だ。
つまり、ある個人の肉体が死んで、その個人がそれまで信じていた物理世界を認識することができなくなった瞬間、その個人にとっての「物理世界」という仮想現実も消える。
しかし、すべてが消えるわけではない。その個人がそれまで認識していた物理世界を形成していた素粒子は存在し続ける。存在し続けてはいるが、あらゆる素粒子が、個人が認識していた物理世界とは「別の動き」をする別の世界が生まれる。
言い換えれば、我々が認識している物理世界というものは確かに存在はしているのだろうが、それを認識する意識──もっと端的に言えば、個々の脳の数だけの別々の世界が多重に存在し、別々に動いている……そんなイメージだろうか。
ここまで書いてきた「我々」という部分を「俺」に替えてみよう。
●俺が認識している物理世界は、俺の脳が外からの信号を処理して俺に見せている一種の仮想空間である。
●俺の脳が死ねば、その仮想空間も消えるが、物理世界を形成している膨大な数の素粒子は存在していて、別の動きをする別の世界が存在している。
●1つの物理世界の中に、膨大な素粒子の動きの組み合わせという無限の世界が多重多層に存在しているが、俺の脳が消えた瞬間、俺が今認識している物理世界は消える。
さて、そうだとしても、俺の脳が死んだ後の「俺」はどうなるのか?
……なんのことはない。振り出しに戻っているなあ。
『人生の相対性理論 60年生きて少し分かってきたこと』
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