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徳川政権確立までの道のり
一人の人間が歴史を大きく変えることがある
イシコフ: さて、戦国時代や戦国武将たちのことは時代劇に任せてすっ飛ばしてもいいかと思ったんだけれど、少しだけ確認しておこうかな。
信長、秀吉、光秀、家康といった有名どころの人物像と、歴史的な意味合いということをザックリとね。
凡太: 人物像……有名な「鳴かぬなら……ホトトギス」の句とかですか?
イシ: ああ、あれは秀逸だよね。
「鳴かぬなら放っておこうホトトギス」
凡太: そんなのありましたっけ?
イシ: 明智光秀が詠んだらそんなところかな。
ところで凡太くんは信長、秀吉、光秀、家康の4人、年齢の順に並べるとどうなるか知ってる?
凡太: え? 秀吉、光秀、家康はみんな信長の下に仕えていた時期があるから、信長がいちばん年上だと思ってましたが、どうなんでしょう。
イシ: 生まれた順に並べると、こうなるよ↓
明智光秀:永正13(1516)年 or 享禄元(1528)年~天正10(1582)年6月13日年7月2日 満66歳 or 54歳没
織田信長:天文3年5月12日(1534年6月23日)~天正10年6月2日(1582年6月21日)満48 or 49歳没
豊臣秀吉:天文6年2月6日(1537年3月17日)~慶長3年8月18日(1598年9月18日)満61歳没
徳川家康:天文11年12月26日(1543年1月31日)~元和2年4月17日(1616年6月1日)満73歳没
凡太: 光秀がいちばん年上だったんですね。
イシ: 永正13(1516)年説と享禄元(1528)年説があって12年も離れているけれど、1528年生まれだったとしても6歳年上だね。1516年生まれなら信長より18歳年上だから、信長とは親子くらい歳が離れていたことになる。
凡太: そんな年下の男に仕えていて、コケにされたりしていたら、ぶち切れてもおかしくないですねー。
イシ: いろいろ伝わっているよね。
信長の命令で四国の長宗我部氏を懐柔するために、苦労して、家臣の斎藤利三(春日局の父親)の妹を長宗我部元親に嫁がせるところまでこぎつけたのに、信長が突然、武力で討つ方針に切り替えてしまったのでそれまでの苦労が水の泡になったばかりか、信用も落ちてしまったとか、酒の席で家臣たちの前で難癖をつけられ辱めを受けたとか、その手の話はいっぱいある。
どこまで本当のことだったかは分からないけれど、概ね、信長はサイコパス、光秀は智将でありながら信長の下で苦労させられたというイメージを持っている人が多いんじゃないかな。
光秀が信長を殺した理由についてはいろんな説があるし、理由は一つではないんだろうけれど、自分より長生きするかもしれない信長にこれ以上内戦を続けさせたら日本がおかしくなってしまうという思いもあったかもしれないね。
あのとき光秀が信長を殺していなかったらどうなっていたのか……想像するのは難しいけれど、いい方向には行っていなかっただろうとは思うよ。
凡太: 光秀がしっかり生き延びていたら、家康のように国をまとめることはできたでしょうか?
イシ: 才覚からして、可能性はあるよね。でも、タイミングが悪かった。
凡太: では、秀吉はどうでしょう。秀吉が家康みたいにあと10年長生きしていたらどうだったんでしょうね。
イシ: それもダメだろ。秀吉は晩年は完全に認知症というか、欲ボケ爺さんみたいになっていたんじゃないかな。それは家臣たちも分かっていた。だからこそ、秀吉が死んだらすぐに朝鮮から兵を引き揚げさせただろ。朝鮮に兵を出して征服しようなんてことがいかに馬鹿げていたか、家臣たちはみんな分かっていたからね。
信長や秀吉の生涯から私たちが学ぶべきことは、たった一人のサイコパスや老害権力者のおかげで国が滅びたり、庶民が大量死に追い込まれたりすることがありえる、ということ。
そのときその場所にたまたまそういう人物が現れて権力を握ったという「怖ろしい偶然」が歴史を作ってしまう。「その他大勢」はその一人を止められない。
周囲の人間が止められないなら、ましてや下々の民衆はどれだけ大勢いても歴史を変えられない。
現代人は、そうした暴虐を止められる理想的なシステムとして「民主主義」が生まれたんだ、今はあの時代とは違うんだ、と思い込まされているけれど、本当にそうなのか?
これから近現代史を見ていくと、「なぜ止められなかったのか」という場面がどんどん増えてくる。
ここではとりあえず、歴史というものは案外簡単に怖ろしい方向に動いてしまうし、それを修正することはとても難しい、ということだけ、心にとめておこうか。
家康の「代わり」が務まる人物はいたか
イシ: 戦国時代から江戸幕府の成立までの時代は、様々なドラマチックな話があって、歴史小説を楽しむ気分で研究していけば面白いけれど、史実かどうかという検証となると難しい。
ただ、徳川家康という人が、最終的には「内戦はもうごめんだ」という気持ちを強く持っていたことは間違いないと思うよ。
家康は三河・岡崎城当主の松平広忠と水野家当主の娘の間に「松平竹千代」として生まれたんだけど、母方の水野家が織田家と同盟を結んだため、織田家と敵対する今川家についていた松平家から母親が離縁されてしまう。さらには父親が24歳の若さで死に、竹千代は4歳から17歳までは人質として暮らすことになる。
17歳のとき、桶狭間の戦いに今川軍の一員として戦国武将デビューするわけだけど、今川義元が死ぬと、敵方であった織田信長と同盟を結び、以後、信長が本能寺で殺されるまで信長側で戦った。その間、三方ヶ原の戦い(1573年)では大敗を喫するなど、常に首の皮一枚つながるような綱渡り人生だった。
信長の下で緒戦を戦っていた期間も、誰が敵か味方か分からないような騙し合いや血族間での命のやりとりが続いていて、普通の人間なら完全にメンタルやられてしまうような凄惨、陰惨な戦や騙し合いが続いた。
そうした経験が家康の思想や人生哲学形成に大きく影響したことは間違いない。
こんな時代を終わらせるにはどうしたらいいか。それを成し遂げるための殺し合いはやむなしとして断行する……というようなことかな。
やったことだけを見れば、家康は信長、光秀、秀吉らと変わらない。しかし、豊臣を滅ぼした後に、それ以上領土争い、覇権争いの内乱が起きないような政治体制を作ったという功績は認めないわけにはいかないね。
信長や秀吉、石田光成では無理だったと思う。光秀はできたかもしれないけれど、時の運に恵まれなかった。
ちなみに、石田三成は永禄3(1560)年~慶長5年10月1日(1600年11月6日)で、41歳没。他の4人に比べると息子くらいの年下だった。人望がなかったとか、神経質で天下取りの器じゃなかったとか、いろいろ言われているけれど、まあ、そうだったのかな。
凡太: 家康が最後に勝ち残ったことは日本にとって幸運だったわけですか?
イシ: そうだと思うよ。
あの時代のことは実にいろいろな話が飛び交っていて、何が本当かは分からない。
例えば、天正7(1579)年頃、家康は信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康が武田に内通しているという疑いをかけられて、信康を切腹させよと命じられ、悩んだ末にその命に従って妻を殺し、息子を切腹させたという事件があったというんだけど、実際はどうだったのかについては諸説ある。
信長は「信康を切腹させろ」ではなく「対処はおまえに任せる」と言ったのだとか、このとき妻と息子は実際に武田と内通していて家康を殺そうとしていたので家康が先手を打ったとか、いろいろな説がある。
それどころか、豊臣秀頼の実の父親は石田三成だとか、明智光秀は実は死んでいなくて、後に天海となって徳川政権創生期を支えたとか、いやもう、面白すぎて困ってしまうような話がこれでもかというほどたくさんあるんだよね。
武将たちの人間像も、後世に作り上げられたイメージがどんどん膨らんでいくし、バイアスもかかる。大河ドラマなんかその典型だろう? 誰を主人公に据えるかで、イメージがガラッと変わる。「先進的で天才肌の武将・信長」「サイコパス殺人鬼・信長」、ドラマや小説ならどちらにでも描ける。
だから、これが正しいとか、ムキになって論争してもしょうがない。
凡太: 分からないことは分からないとする……ですね。
イシ: うん。詳細は分からない。はっきりしているのは、権力を握った者たちは自分の地位を脅かす者たちを殺すことを特別なことだとは思っていないということ。感覚が麻痺している、とでもいうのかな。
あの時代は特にそうだったけど、今だって、やり方が巧妙になっただけで、同じだと思うよ。
とにかく、大局的に見て、家康が殺し合いの時代に終止符を打ったことはよかったに決まっている。確実に言えるのはそれだけかな。
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現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
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こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。