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タヌキの親子見聞録 ~熊野古道編④~
第1章 絶対に全部食べる
1階の夕食会場には、すでに料理が運ばれていた。畳の部屋に上がると、タヌキたちはそれぞれ席に着いた。部屋の窓からは、石橋の向こうの川沿いに世界遺産の『つぼ湯』が見えた。
「お飲み物はどうされます?」
旅館のご主人が料理の説明をしてくれた後、飲み物についても簡単に説明してくれたが、実際にどんなものがあるのか見てみないとわからなかった。
「では、玄関横の冷蔵庫にありますので、見て選んでください」
そう言われて、タヌキたちはご主人について冷蔵庫へ行くと、それぞれが飲み物を選んだ。弟ダヌキはコーラがよかったが、無かったのでサイダーにした。兄ダヌキは、無性に甘いものが飲みたくなったようで、濃いカルピスを選んだ。母ダヌキはお酒も良かったが、とにかくごくごくと飲めるものが良かったので、のど越しがよくて疲れが取れそうなオレンジのサイダーを選択した。
「お父さんは、1日中運転頑張ったんだからビールにしたら」
母ダヌキは、熊野古道ビールなるものがあることが書いてあったので言ったが、
「すみません、今在庫が無くて・・・」
と、ご主人が言うので、父ダヌキは「本宮温泉郷 生貯蔵酒 清酒 太平洋」という透明な瓶に入った日本酒を選んだ。
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「では、お疲れさまでした」
タヌキ一家は、それぞれ好みの飲み物を注ぎ、乾杯した。
「あぁ~、美味しい」
親ダヌキたちは、生貯蔵酒をお猪口に注いで飲んだが、その透明なお酒は、癖が無くまさに水のように飲める、食事の邪魔をしない飲み心地のいい逸品だった。
「お刺身も厚いね。新鮮でおいしい」
和歌山はマグロが取れるということだったが、この山に囲まれた湯の峰温泉で、こんなに新鮮なお魚が食べられると思わなかったので、父ダヌキは嬉しそうだった。
「このイカの酢味噌和えとか入ってる酢の物がいいね。疲れた体に染みるっ」
母ダヌキも、イカの酢味噌和えを一口食べて、お猪口に一杯もらったお酒を飲み唸った。お膳の横には、湯の峰温泉の湯で作る湯豆腐がぐつぐつと煮えてとろけている。
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「オレ、酢の物苦手」
「これ、オレ食べられない」
親ダヌキたちが目を輝かせて食べている傍で、子ダヌキたちは、苦手な食材を自分のお膳から退けていた。どうやら子どもが食べるには、少し渋いメニューだったようだ。それでも、あとから揚げたてで出てきた串揚げや、アユの焼き物などを、美味しそうに食べていた。揚げ物に関しては、野菜は苦手そうにしていたが、お肉(豚肉か?)は美味しかったようで、親ダヌキの分まで取って食べていた。
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「お腹いっぱいだけど、残したら申し訳ないから、ご飯残さず食べようね」
いつも食事を提供している母ダヌキは、作っていただいた方に対する礼儀として、完食を目指した。
「ご飯がもう少し残ってるよ。父さん、食べない?」
「もうおかわりしたよ」
はち切れそうなお腹を抱えながらも、あと少し残っているお米が廃棄されてはならないと、母ダヌキは浴衣の帯を緩めて最後まで食べた。
「はぁ~、お腹いっぱい!」
茶碗蒸しやお漬物が苦手という子ダヌキたちの残した分も食べて、母ダヌキや父ダヌキは、本当に、旅館よしのやの玄関先の信楽焼のタヌキのように、腹がパンパンになった。
「もう入らん!」
最後にお茶を飲めるように用意してあったが、入りそうにも無かったので、飲まずにお腹をさすりながら部屋に戻ろうとしたら、
「まだデザートがでますよ」
と、旅館の女将らしき人が出てきて、タヌキ一家を引き留めた。
「えっ⁉まだあるのっ!」
もう何も入らないぐらい腹がパンパンである母ダヌキは、デザートの存在を忘れていた自分を恨んだ。
第2章 欲張るタヌキ
「食べられなかったら、アンタにデザートあげるわ」
「オレもお腹いっぱいで無理」
母ダヌキは、食事を残してはならないと、甘いものに目の無い兄ダヌキに食べさせようと思ったが、兄ダヌキも限界に達しているようで、即座に断られた。パンパンのお腹をさすりながら、困り果てていると、お構いなく旅館の女将がデザートを持ってきた。小さな器に半分ぐらい入ったパンナコッタと、黄色と緑のキウイフルーツ2切れだった。
「これぐらいなら食べられるか」
母ダヌキは、完食を目指しているので、無理してでもお腹におさめようと、スプーンでひとすくい食べてみた。
「うまいっ!」
パンナコッタは少量であるが濃厚で、器に半分ぐらいがちょうどいい分量だった。その濃厚な味を、合間でさわやかにする役目のキウイフルーツも、いい働きをしていた。
「おいしっ!オレ、これなら食べられる」
兄ダヌキは、お腹いっぱいと言ったくせに、美味しかったので、乳製品が苦手な弟ダヌキの分までペロリと食べてしまった。
完食したタヌキたちのテーブルの側で、給仕するために残っていた女将に、世界遺産の『つぼ湯』はまだ入れるか、父ダヌキが聞いてみた。時間は午後7時半を少し過ぎていた。
「そうですね、今日は平日ですし、暑いからお客さんは少ないんじゃないかと思いますよ」
『つぼ湯』の入浴受付は午後8時半までというし、明日入れなくなったら、ここまで来た意味が無くなるので、タヌキたちは大きなおなかを抱えるようにして『つぼ湯』に入るため、いったん部屋に戻って、財布とタオルを持って、すぐ近くの湯の峰温泉公衆浴場に向かった。
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夕食が始まる午後6時半はまだ明るかったのだが、タヌキ一家が玄関を出ようとすると、湯の峰温泉には薄暗闇が降りていた。ところどころに灯っているオレンジ色の電灯に照らされた川沿いの道を少し行くと、旅館よしのやから向かって左手に湯の峰公衆浴場があった。橋を渡って公衆浴場の受付に行く途中で、橋の下の川沿いの湯気が立っている四角のお湯の中で、温泉卵か何かを湯がいている人がいた。
公衆浴場受付の人につぼ湯に入れるか聞くと、誰も入っていないのですぐに入れるということだったので、12歳以上のつぼ湯800円券3枚と12歳以下のつぼ湯400円券1枚を購入した。ただし、男女で2グループにしたら、つぼ湯に入った後に湯の峰温泉の薬湯(源泉をそのまま適温に冷ましたもの)か一般湯(源泉に加水したもので石鹸やシャンプーが使える)に入れるのだが、1グループ30分なので、1つのグループは薬湯か一般湯に入れるが、もう1つのグループはそれができないという。時刻はもう午後8時になろうとしていたので、そこから30分つぼ湯に浸かると、次の30分で薬湯か一般湯に浸かることができるのだが、午後8時半につぼ湯に入ると公衆浴場が午後9時までの営業時間なので、午後8時半につぼ湯に入ったグループは薬湯か一般湯は入れないということだった。
「だったら、1グループにして、自分たちで15分ずつ分けたらいいですか?」
母ダヌキがそう聞くと、それならば公衆浴場(薬湯か一般湯)に入ることが可能ということで、タヌキ一家は1グループで番号を受け取り、世界遺産の『つぼ湯』へ向かった。
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第3章 タヌキ一家 世界遺産に浸かる
足元が暗い川沿いの道を気をつけながら、公衆浴場受付から少し旅館よしのやの方向へ戻ると、つぼ湯のある小屋へ着いた。入口の扉には「はきものはここでお脱ぎ下さい」とあり、その横に番号札をかけるところがあった。母ダヌキはもらった番号札をかけると、
「多分、(タヌキたちより前の時間に)人が入ってないから、熱くなっていると思う。熱いお湯が得意な私から入るね」
と言って、履物を脱いで先に1人で入っていった。あとの男3人は、外で待機である。
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スロープの付いた石の階段を下りると、小さな簀子と服を入れる籠が2つ置いてあった。そのすぐ側に、大きな石で囲まれた一畳も無いぐらいの穴に、白いお湯を湛えてそれはあった。
「これが世界遺産の『つぼ湯』か」
母ダヌキは、恐る恐る手の先を白く濁ったお湯につけて見ると、指先がふれるやいなや引っ込めた。
「こんな熱いお湯、入ったら火傷する」
母ダヌキは、白いお湯のたまっている石垣の壁に水が出るパイプが取り付けてあるのに気付き、栓を開けて入りやすい温度に冷ますことにした。30分という時間で2グループが入るとすると急がないとならない。湯を混ぜる板で、お湯が湧き出ている下の方からかき混ぜると、お湯が薄まって白い濁りが薄くなり、温泉の底がどんなになっているかわかるのかと思ったが、なかなか白く濁ったお湯はクリアにならなかった。
間で何度が手を漬けて温度を確認しながら、水でお湯をうめた。時間がもったいないので、手が何とか漬けられるようになったら、底の見えない白いお湯に、足をそろりと入れて見た。
「熱いけれど、入れる」
火傷が心配だった温泉の底は、思ったほど熱くはなく、温泉の入り口側は大きめの石か、コンクリートで固めてあり、奥の石垣の方の底は、砂利よりも大きめな丸みのある石が敷き詰められているのが、足に触れる感覚でわかった。
「ここから湧き出してるのかな」
母ダヌキは、玉石が敷き詰められているところを少し足裏でトントンしてみたが、待っているタヌキたちが気になるし、熱いお湯がどんどん湧き出てくるのならば、せっかくいい温度に調整した温泉がまた熱くなってしまうので、温泉に入って周りを見るなどするような余裕もなく上がった。そして、浴衣を着ると、外で待っているタヌキたちを呼び入れた。
「あっつう!これ熱いよ‼」
「これでもすごくうめたんだよ。この前はもっと熱くて、お湯の色も濃かったんだから」
入ろうとした父ダヌキが、足先を入れて飛び上がったのを見て、子ダヌキたちは警戒して後ずさった。
「熱いなら、その横にあるパイプの栓を開けて水を入れるしかないよ」
母ダヌキが教えると、すぐさま水でうめだして、側にあるかき混ぜる板で温泉を混ぜた。
「『つぼ湯』って、つぼに入ってるんじゃないんだ」
何にも予習してきてない兄ダヌキはそう言いながら、用心して水で埋めた温泉に足を入れた。母ダヌキがうめた時よりも、さらにぬるくなっているはずなのに、
「あっつう!あっつう!」
と、顔をゆがめながらお湯に肩まで浸かった。3人のタヌキたちがつぼ湯の中に入ると、3~4人でいっぱいになると聞いていたが、まあまあ余裕がある広さだった。
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記念に母ダヌキが写真を撮ると、足元が熱いらしく、タヌキたちは5分も経たずに温泉から上がってきた。
「もう、熱くて入っとられん!」
せっかくの世界遺産だが、季節が悪かったらしい。
「春とか秋ならのんびり入れたろうね」
そう言って、浴衣を着ると、湯の峰温泉公衆浴場の薬湯に入りに向かった。
第4章 なんて日だ!
今度は、湯の峰温泉公衆浴場の受付横のスロープを通って、2022年春に建て替えられた湯の峰温泉公衆浴場の薬湯に入りに行った。その前に、受付に『つぼ湯』の番号札を返さないとならないことを思い出し、受付に再度向かった。受付のところには女性が1人いて、
「『つぼ湯』には入れますが、公衆浴場の薬湯か一般湯はこの時間にはもう入れません」
と、受付の人が説明しているのが聞こえた。女性は、それでも良いと言って、タヌキたちの次の番号を受け取って、つぼ湯の方へ歩いて行った。母ダヌキは、番号を返しながら、
「熱くてじっくり入れなかったけれど、つぼ湯も薬湯も入れるから、ぎりぎりセーフだった」
と、自分たちの幸運を喜んだ。
もう一度、出来立てのように新しい、公衆浴場のスロープを登ると、向かって右手にある薬湯に入った。旅館の草履を玄関で脱いで上がると、もう入口から熱い空気が充満していた。
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「多分、そんなに長く入れないと思うから」
「上がったら、外の川のところで待ち合わせしよう」
そう言って、男女それぞれの薬湯の暖簾を押して入っていくと、ロッカーの側のエアコンの下のところに何か貼紙がしてあるのが見えた。
「エアコン故障中」
どおりで暑い訳だった。お風呂に入りに来たのに、体から噴き出る汗はとめどもなく、温泉に漬かりに来たのか汗にまみれに来たのかわからなくなるほどだった。
「でも、せっかく来たんだから、『つぼ湯』よりも長く入ろう!」
とことん元が取りたいタヌキは、頑張ってかけ湯をすると、薬湯といわれる、湯の峰温泉の高温のお湯をそのまま冷ましただけのお風呂に入った。さっきのつぼ湯のように、水を入れないと入れないほどではないが、やっぱり熱かった。それでも、せめて10分は浸かろうと思い頑張った。今日歩いた(というより登った)滝尻王子発の熊野古道、野中の清水裏の継桜王子や熊野本宮大社に登る石階段で、日ごろ使わない筋肉を使ったと思われるので、そのあたりを重点的に揉みこむようにして薬湯に浸かった。
時計とにらめっこしながら10分経つと、脱衣所に脱出した。お風呂の中は蒸し暑く、吸う空気も熱かったが、脱衣所に出ても涼しいとは思えなかった。
「なんで新しい施設なのに、エアコンが壊れてるんだよ」
誰も入り手のいない薬湯の脱衣所でひとり毒づきながら、体についたお湯か噴き出る汗かわからないけれどタオルで拭いて浴衣を羽織ると、母ダヌキは涼を求めて外に出た。
温泉の玄関先で草履を出して履いていると、父ダヌキや子ダヌキたちも出てきた。
「エアコン壊れてたでしょ」
「わからんけど、動いてなかった」
男3人のタヌキたちも、他の客はおらず、熱くて長く入っておられず、頑張ったけれど母ダヌキと同じくらいで出てきたようだった。
「あぁ、ジュース欲しい」
温泉の入口横にある自動販売機を見ながらうめく姿は、まるで砂漠で水を求めてさまよう人のようだった。それでも、普通より高い自販機のジュース代を見ると、
「私たちには『野中の清水』のお水がある!せっかく頂いたんだから、無駄にしないように、旅館に帰ってあれを飲もう!」
と、子ダヌキたちに言って、一番汗をかいてよれよれになっていた母ダヌキは、頑張って川沿いの旅館までの道を急ぎ足で帰り始めた。帰る途中、公衆浴場の受付で、本日の『つぼ湯』への入浴は終わったという説明を聞いている4人のグループを見た。今日『つぼ湯』にも『薬湯』にも入れたタヌキ一家は、ラッキーだったのだろうが、一番稼働してないと困る時期にエアコンが壊れているなんて思いもしなかった。