サンクトペテルブルクの夜を知らない3
それから2日はひたすら博物館、市内に点在するレニングラード時代のトーチカや戦車を見て回った。
鉄道博物館、ソ連の暮らしの小さな博物館、ロシア中の風景をジオラマで再現した模型博物館、包囲戦中も戦車工場として稼働していたキーロフ工場(今は農業機械を作っている)の中にある専門博物館、(レニングラード包囲と防衛博物館にも行ったが、残念な事に改装中だった)、ペテルブルクは至る所に公的・私的な大小の博物館があり、その数には圧倒されてしまう。
歴史的遺物も必ずしも博物館に保存されているとは限らない。
道を歩いていると小さな公園の中に1両の路面電車がぽつんと展示されていた。古い白黒の写真とともにただ置かれているこの小さな車輌は、レニングラードが包囲されていた900日の間も市民の足として走り続けていた路面電車だった。
それから道路や線路脇や、アパートの中庭や公園の中に当たり前のような顔をして残る真っ黒に塗られたトーチカ、多くの公園に誇らしげに展示された戦車たち。それらはペテルブルクの人々の日常の中に紛れていたが、わたしには重々しく恐ろしく思われた。
これらはレニングラードを守った人々の戦いを、白い雪の中ソリで運ばれて行った多くの遺体を、尽きせぬ飢えと寒さに凍えて弱っていった人々を、ほとんどない食料配給に並ぶ長い長い列を、いつ終わるとも知れない包囲への絶望と疲労を、覚えているのだ。
戦争の最中に死んだ街の人々の名が刻まれた多くの碑、兵士の像はいたるところにあって、戦争を忘れさせてくれるような場所は、資本主義を高らかに受け入れ繁栄を謳歌する中心部以外はあまりない様に思った。
サンクトペテルブルクに来る前抱いていた、いかにも帝政ロシア的な華やかなイメージは、ネフスキー通り周辺から少し離れると簡単に消え去り、抵抗と栄光の英雄都市レニングラードは少しも薄まることなく重々しく息づいていた。今も華々しく誇られる英雄都市という称号の裏に、死んでいった60万とも100万人とも言われる人々の死が常に見え隠れするのだ。
グンゼチョイネイ・ダツァンというチベット仏教寺院も訪れた。ここもまた戦争の爪痕を残していた。
ここはロシアで初めて作られたチベット仏教寺院であり、帝政末期であった1913年に、モンゴルのダライ・ラマ13世の教育係であり、ロシアに活路を見出していたブリヤート系チベット仏教僧アグワン・ドルジーエフが作った。
しかしスターリン時代にドルジーエフはモンゴル・日本のスパイであるとの容疑を受け投獄され、そのまま獄死を遂げた。ダツァンもまた軍に接収され、軍事ラジオ局として使用されていた。ソ連崩壊後ようやく権利が戻された。*
寺院の中にはモンゴル系らしき数人と、瞑想をするヨーロッパ系の若者が静かに座っていた。
寺院内は大きな改装の途中で、改修の終わったところはぴかぴかと新しく、厳しかった歴史の名残は感じられなかったが、寺院の隣に建てられた寮のような建物の壁にこの寺院がどのように使われてきたかを示すプレートがあった。
・グンゼチョイネイ・ダツァン寺院のサイト