リトアニアの時間を歩く(後編)
3-4日目 カウナス
前日スーパーで買っておいたサラダとサンドイッチ、野菜ジュースにヨーグルトに熱々のコーヒーを淹れて、ちゃんとした朝ごはんを食べたところまでは完璧だったのに、私の行きたかった博物館が2つも閉まっていて(月曜日だから当然だった)市街を一望できるゲディミナスの塔に登るまで、私は夫に終始当たり散らしていた(塔からの見晴らしがとてもよく、気持ち良さに機嫌がなおった)。
私たちは昼頃駅へと向かった。今日はリトアニアの旧都でもあるカウナスに電車で移動するのだ。
彼が駅の前のワゴンでキビナイを買ってくれている間に、私はおばあさんが一人でやっている駅中のカフェでコーヒーを注文した。
『アメリカーノを二つください』
おばあさんはロシア語を発したこちらをちらりと見て、英語で「トゥーアメリカーノ?」と言い直した。
私はイエス、と言いながらしまったな、と思った。こちらの意は通じているけれど。
リトアニア到着時に夫がバスでロシア語を使うかためらったのも同じ理由だった。
私たちが今住んでいるキルギスは、ソ連に対して他の旧ソ連国ほど強い忌避感がなく、現地人も当然のようにロシア語を話すのであまり考えることがない。
しかしバルト三国など特に大きな傷跡を持ち、現在もロシアの脅威を感じている国々では、ロシアへの反発も強く、ロシア人がある程度いようともロシア語教育がなされない場合も多い。一定以上の年齢であればロシア語を解する人ばかりと思われるが、どのように受け止められるか分からなくて不安、と言うのが私たちの気持ちだった。
おばあさんは年齢的に確実にソ連式教育を受けているであろうし、ロシア語も解するだろうがあえての英語なのだろうな、と思った。
結局おばあさんはどうぞ、も値段も全て英語で話した。外国人の私へのサービスの可能性もなくはないが、それにしては含みがあるような言い方に思えた。
カウナスに着いた私たちはまず旧日本総領事館、現在の杉原記念館に向かった。
駅から宿までスーツケースを引きずって歩いていると、若者がジャパニーズ?と声を掛けてきたのでここを訪れる日本人は多いのだろう。
説明するまでもないかもしれないが、杉原千畝はナチスドイツの迫害から逃れるユダヤの人々に請われ、番号が付されているだけで2000枚以上のシベリア鉄道経由日本通過ビザを発給した日本の外交官である。
カウナスの駅から30分ほど歩いた住宅街の中に旧領事館はあった。あまりに周りの住宅に馴染んでいるので、普通に通り過ぎそうな外観だった。ちなみにカウナスに赴任した杉原が建ててから外観は変わっていない。
ユダヤ人たちが領事館に集まった1940年の7月18日以降、同年8月31日に彼がカウナスを離れるまでの間手書きで発給されたビザが少なくとも2000枚以上(トランジットビザであればひと家族に1枚でよいので、実際はそれよりかなり多くの人が助かっている)と言う数も驚きだが、当初カウナスには4万人のユダヤ人がいたが、少なくとも初めの2ヶ月間で1万人ものユダヤ人が殺されていることには戦慄しかない。
ちなみにリトアニア全土には20万8000人~21万人のユダヤ人がいたとされるが、1941年の6月~12月のたった半年余りで19万5000~6000人が殺されており、その殺戮の凄絶さはもはや想像に余りある。
旧領事館内はこぢんまりとしていることもあって、展示自体はすぐ見終わってしまうのだが、壁に貼られた一枚の紙の前で私は立ち止まってしまった。
「…妻、すごくもやもやしてるんでしょ」
「…うん」
それは2018年1月、安倍首相が初のリトアニア訪問で来館した、と言う記事だった*。
杉原千畝はナチスがポーランド西部に進軍し、第二次世界大戦の始まる直前、1939年8月にカウナスに赴任した。その3週間後に独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、ソ連もポーランド東部に進軍した。杉原の使命はドイツによる対ソ攻撃の準備などに関する情報の収集であり、難民の殺到は想定外であったとされる。
なお杉原がカウナスに領事館を開設するより以前に、ナチスドイツの迫害によりユダヤ人が極東へ向かうことが増えているとして、日本に向かった場合の方針を問い合わせる電報がウィーンから発されているが、それに対する外務大臣からの答えは難民を日本または日本の植民地への受入は認めない、通過は条件付きで許可(行先国の入国手続きが完了していること、250円以上の提示金を有すること)だった。
カウナスの日本領事館にユダヤ人たちが押し寄せてから、ユダヤ人の窮状を知る杉原は通過ビザ発給の条件の緩和など情状酌量を求めて電報を打つが返答は条件厳守、だった。
杉原は人道上どうしても拒否できない、として罷免されることも覚悟の上で、独断で条件を満たせない者に対しても通過ビザを発行した。日本からは条件を満たしていない難民が来て市当局が困惑している、として杉原は名指しで厳しく批判された。
杉原は条件厳守の指示に真っ向から反駁すればビザそのものを無効にされる恐れがあることから、表面上は遵法であるように立ち回った。
ソ連や本国から再三の退去命令を受け領事館を閉鎖した後、杉原はベルリンを始めとした5つの領事館勤務を経て、第二次世界大戦の終結後1947年に日本に帰国する。しかし帰国した彼を待っていたのはユダヤ人にビザを出したのは彼がユダヤ人から金銭を受け取ったからだ、という不名誉な噂とカウナス事件における不服従を問題としての事実上の退職勧告だった。杉原は外務省を去った。
不服従による処分は当然だとする風潮は長く続き、政府による公式な名誉回復がなされたのは彼の死後14年目、2000年のことであった。
現代の日本は、難民の申請が一年で1万1300人あっても認定を受けるのは0.2%であるたったの20人、動乱のシリアやミャンマーのロヒンギャ迫害からどうにか逃れてきたとしても難民申請が認められない*ような、何ならもはや国民の基本的人権さえ憲法から削ろうとしつつある、そんな国である。
見返りがないどころか罷免覚悟で杉原が成した仕事を、安倍首相は一体どんな顔して話を聞き、展示を見、歓迎を受け、「日本人として誇りに思う」と口にしたのかと心から思った。*
翌朝は宿の真横にあったローカルなカフェで、ツナペーストを巻いたブリヌイ(ロシア風クレープ)とふわふわのオムレツを食べ、路線バスに乗り込んだ。今日は航空博物館と野外民族博物館に行き、その後ラトビアの首都リガに移動するつもりだ。
カウナスの航空博物館は飛行場の隣にあり、古い空港を利用して作られている。旧ターミナル部分以外はこぢんまりした格納庫のようなつくりで、いろんな物を特に精査せずに詰め込んだ雑多な雰囲気があった。展示品と思われる飛行機の部品でさえ無造作に転がっている。
館内には世界の飛行機プラモ(飛行機に見えないものも混じっている)を詰め込んだガラスケースがあり、各所の空軍のバッヂを集めたケースもある。
「この空軍バッヂかっこいい」
「それナチスのやつだよ」
「あっ、ほんとだハーケンクロイツ…」
ミリタリーオタクの夫に付き合わされて、各国の軍事博物館に足を運ぶ中でナチスドイツの遺した物に出会うことも多いが、他国に比べてデザインが際立ったものが多い。
数年前、AKB系グループのアイドルがナチスを思わせる軍服を着て、反ユダヤ主義への監視を続けるサイモン・ヴィーゼンタール・センターに抗議された件*や、ネオナチが(信じられない事だが日本にも)未だに生まれ続けるのは、ナチスのデザインが現代にまで力を及ぼし続けている証左のように思う。
それから、私がこの旅の中でも一番か二番目に楽しみにしていた野外民族博物館に行った。
広い広い森の中に、リトアニア各地から集められた古い家が集落を作っている。村があって、森を挟んでまた次の村が現れる。古い家は古いけれどつい最近まで誰かが暮らしていたように整えられていて、のぞいて歩くのはとても楽しい。
昔の商店を再現した建物のうちのいくつかは営業していて、私たちはリトアニアの文化に関する古書を専門に扱った本屋と、琥珀と鉄の加工品のお店を見た。手ずから鉄を打つ店主はおじいさんで、彼の子供の頃の写真を見せてくれた。彼はドイツ系で、写真は強制移住させられていたシベリアで撮ったものだった。
リトアニアに来て知った歴史は今目の前にいるおじいさんの中に、また駅のカフェスタンドで話したおばあさんの中に、すれ違った老人たちの中に、現実に体験した事として息づいているのだった。
昼過ぎにカウナスのバスターミナルまで戻り、慌てて水とサンドイッチを買ってリガ行きのバスに乗った。リガに着くまで、2階建バスの最前列のガラスの向こうにはひたすら静かな田園風景が流れていった。
(終)
杉原千畝氏及びリトアニアにおけるホロコーストについてはWikipediaを参考にしています。その他の参考サイト↓
杉原記念館
http://www.sugiharahouse.com/jp
外務省「安倍総理大臣の杉原記念館訪問」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/erp/we/lt/page11_000080.html
産経新聞「杉原記念館視察後の安倍晋三首相の発言詳報 「杉原千畝の勇気ある行動は日本人の誇り」」
https://www.sankei.com/politics/news/180114/plt1801140024-n1.html
「認定率は0.2%「難民に冷たい日本」―専門家、NPO、当事者らが語る課題と展望」
https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20180509-00084621/
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