サンクトペテルブルクの夜を知らない2
翌朝はヨーロッパっぽいオシャレなカフェで朝ごはんを食べ、夫が駅を見に行きたいというので地下鉄に乗った。
「フィンランド」という駅で、その名の通りペテルブルクの北の玄関口であり、ヘルシンキ始め北方からの列車の発着駅である。
駅を出てふと駅の装飾を見上げ、私は圧倒された。直線と直角でできたがっしりとした印象の駅舎に、力強い-鎌とハンマーを背にしたソ連の人民たちの巨大な鉄のレリーフがはめ込んである。何とも直接的な圧迫感だった。
駅の前には大きな広場があり、重い雲が垂れ込める曇天の下、吹き上がる噴水の向こうに鉄色をした大きなレーニン像が手を広げて立っていた。
それから私たちは時折冷たいくらい爽やかな風の吹くネヴァ川のそばを散策し、河岸に係留されている戦艦オーロラを眺めながらネヴァ川を渡った。
「なんかあそこに狛犬っぽい何かがいない?」
ネヴァ川のほとりには明らかにロシア風ではない唐獅子が2頭、川の向こうを見据えていた。
「これどこから来たと思う?」と台座に刻まれた古いロシア語を読んでいた夫が言ったので、私も台座の文字を見た。
「…マンチュジュリ…マンチュジュリ…あ、満州?」
「満州の吉林から1907年にペテルブルクに移設された、だって」
後からネットで見たところによると、満州吉林市にチャンという将軍の祠堂の為に作られた獅子が、1904年に彼が突然死亡したことにより、次の市長によってアムール総督の補佐官であったグロデコフに譲渡された。彼は獅子をペテルブルクに移送すること、また自分が費用を出すと決め、獅子をウラジオストクまで列車で運び、ウラジオストクからペテルブルクまで船で送った。1907年にペテルブルクに届いた獅子は、当時花崗岩で装い直したばかりのネヴァ川河岸に設置されたという*。
この時期、北極海航路はまだ開拓を試みられている時期であったので、この獅子たちは日本海を南下し、マラッカ海峡を抜け、インド洋を周り、スエズ運河を抜けてはるばるペテルブルクにたどり着いたのだろう。
ネヴァ川河岸に突然現れる極東からきた唐獅子たちは、そんな物語を秘めた事をひけらかしもせず、川沿いを楽しげに散歩する人々に写真を撮られ、愛されていた。
それから私たちはペトロパヴロフスク要塞へと渡った。
ここは対岸にエルミタージュ宮殿や夏の庭園を望むネヴァ川の北側にあるザヤチ島に築かれた巨大な要塞で、18世紀に対スウェーデン対策として築かれ、それ以降は政治犯の収容などに使用された。現在はたくさんの博物館があり、一大観光拠点となっている。
私たちも橋を渡り、要塞の入り口に立ったところでふと、聞き馴染みのあるロシア語ではない言葉を聞いた気がして立ち止まった。
要塞の入り口で、飲み物と蒸しとうもろこしを売っている女性が携帯越しに話しかけている言語。
「キルギス語じゃない?」
飲み物を買うついでに話しかけてみると、やはりキルギスの女性で、ペテルブルクに働きに来ているとのことだった。旧ソ連であった国々の人は、基本的にビザが必要なく賃金も自国よりロシアの方が高いので、ロシアに働きに出ている人はとても多い。ペテルブルクは少し歩くとすぐに中央アジア料理やコーカサス料理の店に行き当たること、建設現場などで見かける顔立ちからも、こちらに来ている旧ソ圏の人は多いのだなと感じた。
要塞の中に入り、私たちはいくつかの博物館(ソ連時代のプロパガンダ芸術を扱った展示と、帝国時代の貴族の暮らしの展示が面白かった)と中央に聳える大聖堂を見て回った。
大聖堂はロマノフ朝歴代の廟が安置されていて、ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライ2世を始め、有名な彼の娘たちも皆ここに眠っていたが、あまりに観光客のざわめきと足音が多いのでここでは眠りづらそうだな、と思った。
要塞にはいくつかの門があり、ネヴァ川に面した南側のネヴァ門を出ると小さな砂のビーチが広がっていた。ビーチは観光客や釣り人で賑わっていたが、急にバタバタと降り出した大粒の雨に一斉に人が引いていく。雨にけぶるネヴァ川の向こうにミントグリーンで彩られたエルミタージュ宮殿とイサァク大聖堂の金色の丸い屋根が美しかった。
・ネヴァ川沿いの唐獅子石像について「Chinese Lions Shih Tsza」