画像生成AIが壊すもの
久しぶりに衝撃的に良い作品に出会って東京藝大をぼんやり目指していた頃のことを思い出した。結局大学ではコンピュータサイエンスをやったけど根底にはいまでも絵を描くことの一手法、絵の具としてのコンピュータという感覚がある。本気で絵を描いている人には無論烏滸がましいけど、絵が好きなのは変わらないしルックバックの絵を通じた心の振動は強く共感するものがある。
普段はiPadで描いた絵をちょくちょくTwitterに上げている。油絵を諦め(テレピンで部屋が臭くなるという理由で)将来大富豪になったらアトリエを作るつもりでアクリルで妥協している。文字を書いて仕事をしているけど絵を描いている時は無心になれる。社会的接合面を考えなければずっと絵を描いて自分の世界に閉じこもっていたい。だからこそ情動的な作品を絵画や、漫画や、映像作品という自由度の高い(高すぎる)方法論で、かつ、しっかりとビジネスとして着地させて世の中に送り出せている人々に畏敬の念と、多少のコンプレックスを感じる。
冷めた目で見てしまえば、ルックバックだけでなく全てのコンテンツ、クリエーターの物語はintersubjective(間主観)に分類される。「私」が見るものが主観、「全ての人が同意するもの」が客観、そして一部の人、つまり恋人の二人だけ、チームの数人だけが共有する物語がintersubjectiveだ。その代表例は宗教とされている。コンテンツビジネスが社会との接地に苦労するのは本質的にintersubjectiveであり、だからこそ一部の人の間にしか存在しない物語で、深く刺さるコンテンツになる。刺さった時の深さがドライな学問やビジネスとは比較にならないほど尊い。
その物語の尊さは逆説的に費やした時間によって生まれる。より強くエンゲージした物語だからこそ心が振動するのであって、それはつまり一生の間に当事者になれる物語には限りがあることを意味している。作る側も読む側も当事者として時間を湯水のように使った物語を持っていないとコンテンツは成立しない。当事者になれる物語を増やそうと生き急げば早晩合理的な効率化に収斂し、より効率よくコンテンツをつまみ食いしようとしてTwitterやTikTokのような刹那的なコンテンツに明け暮れれば、皮肉にも物語を喪失する。時間は有限で、費やした時間が物語であれば、時間をどう編集しても物語の総量は一定、というのが理系的な公算になる。
我々コンピュータ技術者は時間を短縮するのが仕事だ。より早く、より正確に、より低コストで情報を検索し、最終アウトプットさえ同じであれば良いという過激な立場に立っている。このコンピュータ的発想はコンテンツビジネスと相反する。コンピュータ自体が、例えばギークなガジェットやプログラミング言語で一文字一文字を打ち込んでいた時間、そしてその時に周りいた人間や孤独な情動の時間がintersubjectiveなコンピュータカルチャーを作っているのは間違いない。しかし、基本的には、コンピュータがせいぜいFPSと解像度を上げることしかできない以上、我々の物語を破壊して喰い散らすことで資本主義の上に立脚する構造的特性を持っている(コンピュータがギークカルチャだけしか産み出さないのなら誰が数十億・数百億円を投資しようか?)。
AIはコンピュータが生み出した物語破壊技術と言える。一つにはその成長速度が人間の感覚を遥かに超えている。ChatGPTの感動はすでに無い。そしてこれまで人間が時間を使って作り上げていたコンテンツを一瞬で生成してしまう。つまり技術の隆興自体にある文化性も、技術のアウトカムも、時間を短縮してしまいゆえに物語性を失う方向に進む。資本主義的立場に立てば合理的な機能も、私たち人間が感じることができる文化や情動の物語性が費やす時間に由来するものだとすれば、不合理不条理に文化や情動を壊している。いまやAIの進化はほぼ少数の変数によってドライブされており特に投資資金(キャピタリズム)の原理が最も大きなファクターになっている以上、AIの本質的な特性は不可避的に我々が文化と感じているものを壊す。
それを望んでいるのは紛れもなく「漫画なんて書くものじゃないよ。一日中書いていても全然進まないし。読むだけにしておくべきだよ」という、しかしそこでベットした私たちの汗や涙や時間によって作り出されるコンテンツの凄み・深みによって紡ぎ出されるintersubjectiveな物語と文化とは180度相反する、気怠さである。
1854年のマリア・スザンナ・カミンズの作品「The Lamplighter」は点灯夫に引き取られた被虐待児の物語で、クラシックながらベストセラーになった。点灯夫とはガス灯時代の職業で、夕刻に街灯を照らし周り、早朝には消灯する。彼らが街灯から街灯へ歩きながら何を考えたか私たちは知ることができないが、確かにそこにintersubjectiveな物語があったことは確かで、その非効率的な時間が被虐待児を救うという物語は近代化を否応なしに感じていた人々に深く刺さっただろう。点灯夫は電気の普及とともに一掃された。
電気の普及で点灯夫はいなくなったが代わりに24時間消えない蛍光灯の下で紡ぎ出される物語が生まれた。点灯夫の物語と、冷たく都市的な光の下の物語の比較は、どちらが良いという比較論よりはむしろ、否応ない技術の津波がノスタルジックな抵抗を一掃し、新生した文化に人間の時間が使われるようになった諸行無常のように思える。電灯が導入される際にも点灯夫の激しい反発があった。しかしすでに点灯夫の存在は書籍を紐解かなければ知ることすらできない。
おそらく10年も経てば画像生成AIは感動的な作品を一から作ることができる。これはほぼ確定した未来で、いかに肌触り名残惜しくても、これまで絵に時間を費やすことで生まれた「人間の」物語は消え去る運命にある。時間をかけて絵を描くという非効率さが構造的に生み出していた、隣で過ごす時間、命を削って紡ぎ出すための熱量による物語は失われる。
ホッパーの絵が好きかどうかはともかくとして、生成AIがいかに時間を短縮しようとも、私たちの時間はどこかにベットされintersubjectiveな物語になるわけだから、止めようのない画像生成AIの潮流をもののけ姫のデイダラボッチ(花咲じじい)だと思って次の時代に眼を向けるのも人生の時間の使い方のひとつかもしれない。
*冒頭画:©藤本タツキ/集英社 ©2024「ルックバック」製作委員会 https://x.com/PrimeVideoAnime/status/1854539683843182900
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?