コーチ物語 クライアント31「命あるもの、だから」その1
「ごめんね、ごめんね……」
雨の中、私はなんどもそう言いながらダンボールの箱を川の橋の下に置いた。そして、後ろを振り返らないようにかけ出した。
「クゥ〜ン、クゥ〜ン」
まだあどけないその鳴き声が耳に響く。それを耳にする度に涙が溢れ出る。けれど、あの子とはもう一緒にはいられない。たった二日間だったけれど、とても楽しかった。でも……
家に帰り着くと、お母さんが真っ先に聞いてくる。
「由香、ちゃんと捨ててきた?」
私は無言でうなずく。
「高校生にもなって、できることとできないことくらいちゃんと判別してほしいわ……」
お母さんは嫌味のように私にそう言う。その言葉を聞くと、涙がさらに溢れ出てくる。そのまま自分の部屋にこもり、ベッドの上で声を殺して泣き続けた。
あの子と出会ったのは二日前。たまたまいつもとは違うルートで友達と学校から帰る途中、あの橋の下を通った。そのとき、草むらの中から白くてフワフワしたものが動いているのを目にした。
「あっ、子犬だ!」
友達がそう叫ぶ。見ると、とてもかわいらしくて小さな子犬がひょこひょこと動いている。私は思わずその子犬を抱きしめてしまった。すると、子犬は私の鼻をペロペロ舐めてくる。その瞬間、とても愛情が湧いてきて離したくないと思った。
「かわいいねぇ、どこの犬かな?」
友達の美優がそう言う。見ると首輪はしていない。飼い犬が迷子になったって感じじゃなさそう。ふと草むらを見ると、段ボール箱がおいてあり、そこ中にはいくばくかのドッグフードが置かれていた。
「ひょっとしてこれって捨て犬かな?」
美優の言うとおりかもしれない。
「由香、あんたのウチでこの犬飼えないかな?」
「えっ、うちで?」
「だって、私の家ってマンションでしょ。だからペット飼えないし」
私の家は一戸建て。庭もそれなりにあるから、犬一匹くらい飼えなくはない。けれど、お母さんが何というか。でも、こんなにかわいいんだから、お母さんだって情が移るはず。だからきっと許してくれるんじゃないかな。
そんな淡い期待を持って、私はその子を抱きかかえて家路についた。ドッグフード入りのダンボールは美優が持って行ってくれた。
帰るなり、お母さんは目を丸くしてこう言う。
「由香っ! あんたこれどうしたの? まさか、飼おうって思っているんじゃないでしょうねっ!」
強い口調で私に対してそう言うお母さん。見るからに真っ向から反対の姿勢をとっている。
「ねっ、私がちゃんと世話するから、飼ってもいいでしょ、ねっ、お願いっ!」
いくら私が説得しても、お母さんは知らんぷり。それどころか口も聞いてくれない。なんでこんなにかたくなに子犬のことを拒否するんだろう?
その日の夜、家族会議が開かれた。そこでお母さんは開口一番、強い口調でこんなことを言い出した。
「自分で飼う、なんて言っておきながら結局世話をするのは私になるのよね。そんなの無責任じゃない」
「そんなことしないって。ちゃんと朝の散歩も私が連れて行くし」
「そんなの最初だけでしょ。それに、あなたは来年受験生なんだし。そんなことに時間を使っている暇があるの? 塾だってあるんだし」
「大丈夫。ちゃんとやるから」
私とお母さんのやりとりをお父さんと弟は無言で見ている。その傍らで段ボール箱の中でクゥンと鼻を鳴らしている真っ白な子犬。
「大樹、あなたは犬飼ってもいいよね?」
私は弟を味方につけようと思った。が弟の答えはこう。
「オレは部活で忙しいからなぁ。朝練もあるし、夜も帰ってくるの遅いし。犬はかわいいけど、オレは世話できないよ」
じゃぁ、ということでお父さんに目を向ける。が、お父さんは厄介事はゴメンだと言わんばかりに目を伏せる。
「とにかくこんな小さな子犬を放っておけないよ。せめて、他の飼い主が見つかるまでは家においてもいいでしょ? ね、お願いっ」
このせめてものお願いにかけてみた。ここで数日間をかせぐことで、家族の中でもこの子犬に対しての愛情が湧くんじゃないか、そう思った。
「そう言っていつまでも引き延ばしているわけにはいかないから。期限は二日。明後日までだからね」
お母さんはそう言って席を立ってしまった。たった二日しか許してもらえないのか……厳しいな。
けれど、二日間は精一杯この子犬に愛情をかけられる。その間に本気でこの子犬の飼い主になってくれる人を探そう。翌日、私は早速この犬の写真を見せて同級生にあたってみた。けれど、返事はみんなノー。かわいいと言ってくれるけれど、いざ飼うとなると簡単にはいかない。
ならばと、私は今度は子犬を連れて近所を回ることにした。放課後、犬を飼ってくれそうな家に訪問してはお願いして回ったのだが……。
「誰も飼ってくれないんだ……どうしよう」
夜になり雨が降り出す。途方に暮れる私。結局この日の夜は部屋の中で子犬と過ごす。一緒にいればいるほど愛情が湧いてくる。もう一度お母さんを説得するしか無いのかな。そう思ってリビングにいく。けれどお母さんは
「犬のことならダメだからね」
と頭から拒否。翌日、最後の望みをかけて学校でもう一度みんなにお願いを。けれど現実は厳しい。
家に帰ってくると、お母さんがすごい形相で立っている。
「この犬、早く捨てておいで!」
「な、なんで? まだ猶予あるじゃないの」
「そんな問題じゃないの。躾もされていないからこのありさまよ」
ふと見ると、リビングの片隅にそそうをしたあとが。しかも下痢のようでカーペットが台無しに。
「もう、このカーペット取り替えないといけなくなったじゃないの。こんな犬は家には置いておけないの。早く捨ててらっしゃい」
私は泣く泣くこの子犬を捨てに行くことになった。まだ名前もつけていないこの白い子犬。元いたあの橋の下へ再び置いてくることに。
この日の夜、私は食欲がなかった。あの子犬のことを思うと、どうしても落ち着かない。雨の中、寒い思いはしていないだろうか? 無理に外に出て雨に濡れていないだろうか? そんな思いがグルグルと頭のなかをかけめぐる。
翌日、私はいつもより早く家を出る。あの橋の下の子犬が心配になって。ついでに食べかけのパンをこっそりかばんに入れて持っていった。
橋に下に行く。子犬はどうなったのかな? ダンボールの中を見る。が、あの白い姿は見えない。うそっ、どこかに行ったの? 私は周りを見渡す。すると、近くに一人の背の高い男性の姿が見えた。私はこの人に聞いてみようと思った。その私の行動が、あの子犬との運命を決めることになるとは、このときには思いもしなかった。