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コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」13.万物生々 後編

「濱田さん、こんな言葉があります。万物生々。ものはすべて生きている、ということです」
「ものはすべて生きている……?」
 羽賀さん、急に何を言い出したのか意味がわからなかった。私の今の状況と、そんなオカルトじみた話とどう関係があるのか?
 私は黙って羽賀さんの次の言葉を待った。だが、羽賀さんはあえてここで長い沈黙の間を作る。徐々にいら立ちを感じる。
「ものはすべて生きているって話と、今の私の状況、どんな関係があるんですか?」
 私の方から口を開いた。すると羽賀さん、ニコっと笑ってこう言ってきた。
「濱田さん、今お茶を飲んでみてください」
「お茶? まぁいいですけど」
 言われたとおり、お茶に口をつける。
「お味はどうでしたか?」
「まぁ、普通のお茶だと思いますが」
「美味しいとは感じませんか?」
「別段、美味しいなんて感じませんよ。普通のお茶じゃないですか」
「あれぇ、おかしいなぁ。今回特別にお願いをして、ボクが持ってきた高級玉露を用意してもらったんですけど」
「えっ、これが高級玉露!?」
 あわててもう一度口をつける。すると、確かに香りが違う。味も甘みを感じる。よく見ると、緑色も深みがあるように感じる。
「今度はいかがでしたか?」
「あらためて飲んでみたら、とても美味しいです」
「でしょう。実は今のが答えです」
「今のが答え?」
 ますます意味がわからなくなってきた。どういうことなのだ?
「ものは全て生きています。濱田さんが使っていた工具も、メジャーも、お金も、そして今飲んだお茶も。濱田さん、会社が濱田さんを大切に扱ってくれると、どのような働きをしますか?」
「そりゃ、会社に貢献しようと一生懸命働きます」
「逆に、会社が濱田さんのことを粗末に、使い捨てのコマのように扱ったらどうですか?」
「うぅん、喜んでは働けませんね。適当にするかも。場合によっては会社を辞めてしまうかもしれません」
 ここで気がついた。私は工具やメジャーをいい加減に扱っていた気がする。ダメになったら買えばいいや。このくらいの気持ちしかなかった。
 さっき飲んだお茶も、たかがお茶であるという意識を持ったから、味に何も感じなかった。けれど、高級玉露だと聞いた途端、とても貴重なものだから大切に飲まなければという意識がついた。だから味が変わったのか。
「ものを大切にする人のところには、いいものが集まってきます。一流の職人さんは自分が使っている道具を、とても大切に扱います。だからいい仕事ができ、いい作品ができあがる。その結果、お金も集まってくる」
 ここでも気づいた。紗弓の保険金が入ってくるからと思って、お金そのものを軽く見ていた気がする。今まではたとえ10円だろうが、とても大切に扱っていた。だから、必要なお金を手にすることができていた。
 その結果が紗弓の保険金だったのに。それを手にした途端、お金を粗末に扱ってきた。このくらいいいだろう、そんな気持ちを持っていた。
「ものはこれを生かす人に集まる。これが万物生々の本当の意味です。ものは生きている、だからこそ感謝を持って扱う人のところに寄ってくるんです。道具だけじゃありません。食べ物も、そしてお金も同じです」
「羽賀さん、私は大切なことを忘れていました。ついこのくらいいいだろうと、ものに対して粗末に扱う気持ちが出ていたようです。こんな単純なことに気づいていなかっただなんて」
「そんなに自分を責めないでください。実はボクにもその経験があるんです」
「えっ、羽賀さんにも?」
「はい。ボクは昔、マウンテンバイクのレースに出ていた時期がありました。まだ会社勤めをしていた頃なんですけど。このとき、そこそこいい成績をとっていて、スポンサーの話がきたんです」
「すごいじゃないですか。見た目から違うとは思っていましたが」
「ありがとうございます。そこで、ボクはちょっと天狗になっていたんです。スポンサーが付けば、もっといいパーツをつけることができる。このとき、意識がそっちに向きすぎていたんです。で、スポンサーはとある条件を出してきました」
「条件?」
「はい。次のレースで表彰台に立つこと。もちろんボクは自信がありました。このとき、すでにボクの頭のなかは新しいパーツの事でいっぱいでした。カタログも取り寄せ、スポンサーが付いたらこれを買おうと」
「それで、結果はどうなったんですか?」
「途中まではトップを走っていました。が、ゴール寸前でマシントラブルにみまわれて。結果、このレースはリタイヤとなったんです」
「な、何があったんですか?」
「チェーンに異物が挟まって、ディレイラーという変速機が壊れてしまって。それだけならいいんですけど、そこでまた無理をしたもので、チェーンも切れちゃって。それで走れなくなったんです」
 そのときの状況をイメージしてみた。きっと羽賀さん、悔しかったんだろうなぁって。
「結果、ボクのスポンサーの話もなくなって。それどころか、パーツを交換しなくちゃいけなくなって余計な出費でしたよ。で、その時はその原因がわからなかったけれど、今ならよくわかります」
「万物生々、ですね。新しいパーツに目を向けすぎて、今のパーツが反乱を起こした。そういうことですか?」
「はい、ボクもそうだと思っています。パーツが反乱を起こしたんですね」
 羽賀さんの話を聞いて、今の自分をあらためて反省した。このままではいけない。心を入れ替えないと。
「羽賀さん、ありがとうございます。おかげさまで、今の私に足りないところ、欠けているところがわかりました。万物生々、これをしっかりと意識をして、これからの仕事に取り組んでいきます」
「はい、ぜひそうしてください。ものもお金も、食べ物も、そして人も大切にすれば必ず自分の周りに集まってきます。ボクも、いろいろなものに感謝の気持ちを持つことで、不自由なく暮らしていけるようになりました」
 不自由なく暮らす。これこそ、こういったものに囲まれているからこそできること。それが当たり前だと思わずに、今目の前にあることに感謝をせねば。
「じゃぁ、早速何から始めてみますか?」
「そうですね、まずは今まで使っていた工具、これらを磨きます。そして、万物生々の話を後任の田中くんにも話してみます」
「いいですね、じゃぁ早速それに取り組んでいきましょう。ご家庭ではどのようなことに取り組みますか?」
「まずは紗弓と太陽に、万物生々の話をしてみます。その上で、もっとものを大切にするように呼びかけます。あ、もちろん私もものを大切に扱うことを実践していきます」
「とてもすばらしいです。ぜひそれを実践し続けてください。そうすることで、必ず変化はおとずれますよ」
「はい、ありがとうございます」
 ここでもう一度、あの玉露を味わうことに。冷えてしまったが、やはり美味しいお茶はおいしい。
「あ、ちょっとだけネタばらしです。このお茶、玉露って言いましたが実は普通のお茶です。抹茶入りなので、甘みは感じますけどね」
「えっ!?」
「あはは、騙してごめんなさい。けれど、どんな食べ物もおいしいと思って食べるとおいしくなるものですよ。感謝を込めて、いただきましょうね」
 まったく、羽賀さんには一本取られた。けれど悪い気はしない。おいしいと思って食べたり飲んだりすれば、それは本当においしくなる。
 全ては生きている、万物生々なのだから。

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