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コーチ物語 クライアント32「恋、それとも愛」その2
「そうだったんだ。まさか、おとなしそうなあなたがそんなことを……」
恵子はさすがに驚いた様子。けれど、私の言葉を冷静に、淡々と受け止めてくれたおかげで、私も気持ちがスッキリしてきた。
「それで、優子はどうしようと思っているの?」
「うん、もう終わらなきゃとは思ってる。でも、その一歩がどうしても踏み出せないの。あんなに優しい人はいままでいなかった。だから……」
言いながらシュウの笑顔が浮かんできた。シュウの一言一言が私にとってはうれしかった。心ときめく恋がこんなにも楽しいものだったなんて。今までこんなこと味わったことがなかった。語れば語るほど、その思い出が鮮明に蘇ってくる。
「そうか、優子はその人のことがどうしても忘れられないのね」
恵子の反応は意外だった。私は当然反対されるものだと思ったから。そんなのやめておけ、早く別れなさい。これが世間一般の私に対する意見のはず。
私はどうして恵子がそんな反応をするのか、それが不思議に感じ始めた。そこでこんな質問を投げてみた。
「恵子は恋ってしたいと思わない?」
「そりゃ、恋っていいなって思うけど。でも私は旦那さんを愛しているから」
恋はいいと思う。けれど旦那さんを愛している。あれ、それってどういうこと? 私もシュウのことを愛している。でも今の恵子の口ぶりだと、恋と愛って別物っていうようにとれるけど。
恵子の言葉はさらに続いた。
「優子は今まで恋ってしたことなかったの?」
「うぅん、ないわけじゃないけど。今の夫とも恋愛結婚だから。でも長く一緒に住んでいると、もう恋なんてどこかに行っちゃったし」
「あはは、それは私も同じよ。若いころの恋愛みたいには心ときめかなくなっちゃったなぁ」
「でしょ。だからもう一度あのときめきを……」
言いながら、私が出会い系サイトに手を出した頃のことを思い出した。女としてこれからだというのに。私にはそんな悦びを感じる経験がなかった。夫とのセックスも、ずっと子作りのためだけであって楽しむなんてこと考えもしなかった。
このまま女として枯れていくのが嫌だった。だから私は出会いを求めてしまった。
「やっぱり、優子は恋をしたかったんだね。けれど、愛には包まれていない。そう感じているんじゃないかな」
恵子の言葉、まだよく意味がわからない。私はシュウに愛されている。あんなにも激しく、そして優しく愛してくれた人は今までいない。だからこの愛をどうしても失いたくない。
恵子から言われて、さらにシュウと別れることを拒否している自分に気づいた。
「じゃぁ、もうひとつ質問ね。どうしてその人と別れようと思ったの?」
恵子の質問の答は明らか。
「やっぱりいけない関係なのはわかっているから。これがもしお互いにバレでもしたら、家庭崩壊につながるのはわかっているし。夫と離婚はしたくないの」
「どうして?」
「そりゃ、せっかく授かったゆうともいるし。それに私専業主婦で。経済的にも夫を頼らないと無理だし」
「子どもとお金が旦那さんと離れたくない理由なのね」
恵子からそう言われて、なんだかちょっとモヤモヤする。それだけじゃない。もっと他にも理由がある。けれどそれがなんなのかよくわからない。
「じゃぁ、もし子どもがいなくてあなたが経済的に自立していたら、もう今の旦那さんとは別れていたのかな?」
「そ、それは……」
言葉に詰まった。離婚なんてする勇気もない。確かにシュウと一緒になりたいなんてことを考えたこともあった。シュウも、もし私と一緒に暮らすなら、なんてことを腕枕をしながら語り合ったこともあった。けれどそれは夢の話。現実的にシュウと一緒に暮らすなんてことはありえない。
私が黙りこんでいると、恵子はパッと明るい顔をしてこんなことを言い出した。
「ね、ちょっと提案があるんだけど」
「な、なに?」
「私の務めているお花やさんの二階に、コーチングをやっている羽賀さんっていう人がいるの。この人と話をしてみない?」
「えっ、コーチング?」
あまり聞き慣れない言葉。いきなりどうしてこんな提案が出てきたのだろう?
「今まで話を聴いてたら、優子の心の奥にもう一つ何かあるような気がするの。そこが明確になれば、優子もこれからの行動をはっきりさせられると思うのよね。でも私じゃここまでが限界。だからその先はプロに任せるのはどうかなって思って」
「その羽賀さんって、何する人なの?」
「そうね、一言で言えば気づかせてくれる人、かな。自分の奥底にある答えをね。実は私もたくさん羽賀さんに気づかせてもらったの。だから今、とても充実した毎日を送っているわ」
確かに、恵子はとても明るくていい笑顔でいる。私も早くこんな風に笑いたい。笑って毎日を過ごしてみたい。
「じゃぁ、その人に会わせてくれる?」
「うん、羽賀さんに話をしてみるね。本来はプロだからお金が必要なんだけど。初回は無料で話を聴いてくれるみたいだから。それだけでも気持ちがスッキリすると思うよ」
「ありがとう」
ちょうどのタイミングで夫からメールが入った。そろそろゆうともぐずりだしたから、ということらしい。
「じゃぁ、また連絡してね」
そう言って恵子と別れた。夫のいるところまで向かう途中、また考えた。私、本当にどうしたいんだろう。シュウと別れたいのか、それとも今のままでいたいのか。考えれば考えるほどわからなくなってきた。
「ママー!」
ゆうとが私の顔を見るなり、私に抱きついてきた。どうやら夫では限界だったようだ。
「ゆうともずいぶんガマンしてたんだぞ。でも今日はママに気分転換させてあげようなって言い聞かせてたから。ゆうと、よくがんばったな」
そうだったんだ。なんだか申し訳ない。こんなにいい夫に恵まれているのに。なのに私はシュウと……。
このとき、私の心の奥で何かが叫んだ気がした。けれどそれがなんなのかわからない。わからないまま、ゆうとと手をつないでこの大型ストアをあとにすることになった。
そして翌日、いつものように夫は会社。ゆうとは保育園。私は家事をひと通り済ませたお昼前に、二通のメールが入った。一通はシュウ。いつものように近況を知らせる、ごくなんてことのない内容。けれど私のことを気遣ってくれるのがわかる。
いつもならここですぐに返事をするところなのだが。もう一通のメールの差出人が恵子なのに気づいて、そちらを先に開くことにした。