コーチ物語 クライアント27「見えない糸、見えない意図」その5
「まず大事なのは相手の話を聴くこと。これがコーチングの基本だからね」
「聞くことって、話を聞けばいいの?」
確かにコーチングの本にはそう書かれてあった。でも最初のほうだったのでちょっと読み飛ばしていたところではあったけど。
「真澄さん、今頭のなかに『きく』って漢字は何が浮かんでる?」
「えっ、聞くってこうでしょ」
私は机の上に、頭に浮かんだ門がまえに耳の文字を書いてみせた。
「まずはそこが違うのよね。さっき解答にどう書いたっけ?」
「あ、そっか。耳へんの方を書いたな。でもこれって何が違うの?」
「何が違うと思う?」
ミクの言葉にあらためて考えさせられた。ただの漢字の違いとしか考えていなかったけれど。
「じゃぁ、あるなしクイズ。門がまえの方には無くて耳へんの方にあるものって何でしょ?」
ミクは紙にあらためて『聞く』と『聴く』を書いてみせた。こうやって書くと一目瞭然。
「えっと、心って字かな?」
「正解! コーチングではこっち、耳へんの方の聴くをやりなさいって指導しているの。これってどういうことかわかるかな?」
「つまり、心をこめて聴けってこと?」
「その通り! じゃぁ具体的にどういうことをすればいいと思う?」
「具体的にって、そりゃ心をこめて聴くんだから……」
ミクに言われて、はたと困ってしまった。心をこめて聴くってどういうことなんだろう? 意識を相手に向ける。これは当たり前でしょ。それ以外に何があるのかしら?
「じゃぁ、実際に試してみましょう。今から私、真澄さんの話を聴くから。2パターンの聴き方をするね。どちらも真澄さんの言葉にはしっかりと耳を貸しているから、いろいろとしゃべってね。じゃぁ話のテーマは……最近食べた美味しかったもの、これにしましょう」
最近食べた美味しかったもの。そういえばこの前みずきと一緒に食べに行ったパスタは美味しかったな。この話をしよう。
「じゃぁ、話してください。どうぞ」
そう言った途端、ミクは私に背を向けてパソコンに向かいだした。えっ、どういうこと? でも話せと言われたから私は初めてここに来た後にみずきと食べたパスタの話をしだした。しかしミクは何の反応もしてくれない。話しづらくて言葉に詰まってしまうな。なんだか話すことももうなくなってきたし。そう思った時、
「はい、ストップ。今の気持ちをよく覚えておいてね」
「覚えておいてって、ミクは今私の話聴いてなかったじゃない」
「ううん、ちゃんと聴いてたわよ。真澄さんが食べたのはペペロンチーノ、みずきさんが食べたのはムール貝のクリームパスタ。それぞれ味見をしあって食べたんでしょ」
確かにその通り。ミクが私の話をちゃんと聴いていたのは間違いない。でも何か腑に落ちない。
「じゃぁもう一パターンの聴き方をするね。じゃぁ今度は最近困ったことの話にしましょうか」
困ったこと、と言われて頭に浮かんだのは今日やったコーチングのテストのこと。私は物覚えが悪いから、この一週間とても苦しんだ話をし始めた。
ミクは今度は私の方を向いてくれて、おおきくうなずいたり適度な相槌を打ったり、また質問もしてくれてそれに答えることで話がより深みを増していった。
「はい、じゃぁこのくらいにしておきましょう。さて、一回目と二回目、気持ちはどんな風に違った?」
「一回目はミクは本当に話を聴いてくれているんだろうかって思って。だから話すこともなくなってきてもう喋りたくなくなったわ」
「じゃぁ二回目は?」
「まだまだ喋り足りない。もうちょっと話を聴いて欲しいって思ったわ」
「どっちのほうが時間が長く感じた?」
「そりゃ一回目の方かな。違うの?」
「うふふ、正解は一回目は1分間、二回目は3分間でした」
「うそーっ!?」
これにはびっくり。まさかそんなに差があるとは。
「コーチングって誰が答えをだすか、覚えてる?」
「そりゃ、自分自身でしょ」
「うん、じゃぁその答えってどこにあると思う?」
「うーん、自分の心の中、かな?」
「そう、でも答えが心の中にあるのに、どうしてそれに気づかないんだろう?」
「それを思いつかないから、かな?」
「じゃぁ、どうやったら思いつくの?」
「あ、確か本に書いてあった。話をすることで思いつくって」
「真澄さん、今もそうだったでしょ。私と会話をしていて、答えがどこに潜んでいるとかどうやったらそれを思いつくのかってことが喋りながらひらめいてきたでしょ。コーチングはその作用を使うのよ」
なるほど、本に書いてあった答えは自分の中にある、コーチはそれを引き出すだけってそういうことだったのか。
「じゃぁもう一つ質問。相手に話をさせるために、コーチは何をしなきゃいけないでしょうか?」
「もちろん、話を聴くってことよね」
「でも、さっき二種類の聴き方をしたでしょ。どっちがいい?」
「そりゃ、二回目の方に決まっているじゃない」
「じゃぁ二回目の時に私がしたことは?」
「えっと、私の方を向いてくれたでしょ、大きくうなずいて、あいづちをうって、適度に質問を入れて、それから……あ、私の言葉を繰り返してくれて、それと……」
私はミクの態度を思い出しながら言葉にして入った。ミクは私の言葉を聴く度に復唱をしてくれて、それを紙に書き出していく。このときに思った。あ、これが聴くことなんだって。そしてもうひとつ思った。今までの私に足りなかったのはこれなんだって。
私、彼氏や課長の話をただじっと黙って聴いていた。会話が一方的で続かないこともあった。そうか、だから彼氏も課長も言いたいことがきちんと言えないまま会話が終わっていたんだ。もう私とは話すことがないって思ったから、それ以上のことを言わないでいたんだ。そのせいで相手の思っていることまで話を十分にしてもらえなかったんだ。
私はミクに今気づいたことを話してみた。
「真澄さん、すごい! そうよ、そうなのよ。そこに気づいたってとてもすごいことなのよ!」
やたらとはしゃぐミク。そんなにすごいことなのかな? でも、そうやって言われると私ってまんざらじゃないな、なんて思っちゃう。おだてられると調子に乗るタイプだからなぁ。
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