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コーチ物語 クライアント41「夢、その奥にあるもの」 第一幕 夢やぶれて その1

 見渡せば青い空。ビルの隙間から見えるその空は、どことなくどんよりとした、霞がかかったような青に見える。
 秋晴れの中、観光旅行で訪れたのだろうか、聞きなれない言葉を喋る、私と同じような顔つきをした団体が通り過ぎていく。たぶん中国人なんだろうな。それとも韓国人かもしれない。
 昔はそういった外国人を相手に、私も多くの商売を手がけていたものだ。あるときは何億というお金を右から左に動かし、またあるときは海外で買い付けた商品をコンテナいっぱいに詰めて日本に送る。そうやって生きてきた時代が懐かしい。
 今はどうなっているかといえば、すでにぼろぼろになった服をなんとか着まわして、今日のご飯を食べるために毎日を過ごしている。こんな生活を初めてもう一年くらいになるかな。そもそも、今が何月何日で、世の中がどのように動いているのか、さっぱりわからない。まぁ、知らなくても生きてはいける。
「おい、博士、そろそろ炊き出しが始まるぞ」
「あぁ、わかった。今から行く」
 私にはちゃんとした名前がある。が、この界隈の仲間からは「博士」と呼ばれている。それは、私がインテリっぽく見えるからだそうだ。だから、博士みたいだと誰かが言い出して、以来私は博士と呼ばれるようになった。
 まぁいい、そもそも自分の名前を捨てたくて、今のような生活を始めたのだから。今までやってきたことを全て投げ出したくて、そして過去を、仲間を、家族を忘れたくて、今こうやってここにいるのだから。
 だから今の私は「博士」以外の何者でもない。
 この地域では、毎月一回、私達のようなホームレスや経済的な困窮者を相手に、炊き出しが行われる。唯一、温かいご飯にありつけるありがたいときだ。
「はい、こっちに並んで。一列、一列にね」
 ここではいつも、ちょっと太ったおばさんがその場を取り仕切っている。役所の職員とは違うようだ。けれど、周りのみんなはいつもこのおばさん「おたけさん」を頼りにしている。
 最初このおばさん、おたけさんを見たときには
「やたら場を仕切っている仕切り屋がいたもんだ」
と思っていた。このときは私にとってちょっと嫌なヤツを思い出していた。そもそも、こんな生活に落ちぶれるようになったきっかけをつくったのは、その仕切り屋の嫌なヤツだったから。
 けれど、二ヶ月、三ヶ月とこのおたけさん率いるボランティア集団にお世話になっていくと、不思議なもので徐々にこのおたけさんが「女神」のように思えてきた。
 おたけさんの仕切りは、あくまでも私達ホームレスや困窮者が少しでも元気になってもらおうとするためのもの。自分の都合を押し付けるものではない。それがわかってくると、今度は親愛の情というものが芽生えてくるものだ。
 といっても、それ以上の特別な感情は湧いてこない。まぁ、おたけさんの見た目の問題もあるし、そもそも私自身のそういった欲求というものが失せていることがわかっているから。
「はい、どうぞ。博士、今日はいまいち顔色がさえないね」
 おたけさんは私達ホームレスの顔と名前をすべて覚えてくれている。炊き出しのご飯を渡すときに、必ず一言添えてくれる。ここで本当に体調が悪いときには、すぐにボランティア施設に連れていき、簡単な健康診断を受けさせてくれる。
 私もここにきて初めての冬を越すときに、まだ慣れていなかったせいで風邪をひいてしまった。おたけさんがすぐに私の体調が悪いことに気づき、熱が引くまでボランティア施設でお世話になったこともある。
 こうやって私は今日もなんとか生き延びている。いつもと変わらぬ毎日で、いつもと変わらぬメンバーと、いつもと変わらぬ会話を交わし、ただ時が過ぎていくのを待っているだけ。そんな人生を送っている。
 だが、今日はちょっと違う変化が訪れた。
「あんた、周りの人達よりもまだ若いようだが。いくつなんだい?」
 そう声をかけてきた老紳士が現れた。ちょっと恰幅がよく、にこやかな顔つき。例えて言うならば、恵比寿さんのような風体だ。
「あ、私ですか。確かまだ四十五歳ほどだったと思います」
 どうしてそういうのか、誕生日が九月だったから。けれど今日が何日かよくわからないので、誕生日がきたときの年齢を言ってみた。
「ほう、世間ではまだまだ働き盛りではないか。どうしてこんな生活を送っているんだい?」
 余計なお世話だ。そのときはそう思った。だから私は、その恵比寿顔の老紳士に背中を向けて、炊き出しのご飯をむさぼるように口に入れた。
「機嫌を悪くさせてしまったようですまなかったな。まぁ、ワシもちょっとおせっかいだったかのぉ。たまたまこの公園の横を通りかかったら、炊き出しをやっておるのでどんなものか、様子を見させてもらいに来たんじゃが」
「ふん、ただの興味本位かよ。だったら悪いけど、あんたに自分のことを教えるほど、私もお人好しじゃないんでね」
「そうか、そうじゃのぉ、確かにお前さんの言うとおりじゃ」
 このとき、私と同じ場所で暮らしているホームレス仲間のトクさんが、両手に炊き出しのご飯を持ってニコニコしながら近づいてきた。
「よぉ、博士、この人知り合いか?」
「いや、私たちに興味があるらしくて近づいてきたんだよ」
 再び恵比寿顔の老紳士に背中を向けて、俺はトクさんの方を向いて話し始めた。
「ほう、おまえさん、博士というのか」
「そうなんだよ、こいつ、なんだかインテリっぽい顔してるだろう。だから、頭いいんじゃねぇかって思ってさ。オレらの間では博士って呼んでるんだよ」
「なるほど、博士か、言われてみればそんな顔をしておるのぉ」
「ふんっ、ほっといてくれ。ごちそうさまっ」
 私は割り箸と容器を持って、ゴミ捨て場の方へと歩いていった。ここで再び空を見上げる。どこまでも続く青い空。けれど、それは私の目には相変わらず、どんよりと曇りがかって見える。
「いい天気じゃのぉ。じゃが博士、ひょっとしたらお前さんの目には、この青色がくすんで見えるのではないかな?」
 不意に声をかけられる。声の方向を向くと、それはさっきの恵比寿顔の老紳士。さすがにその言葉に私は驚いた。
「ど、どうしてそう思うんだよ。そもそもあんた、何者なんだ?」
「ワシか? ワシは桜島という。今までたくさんの人を見て、たくさんの人を勇気づけ、そしてたくさんの人の人生を支えてきた。そんなおせっかいじいさんじゃよ」
「そんなおせっかいじいさんが、どうして私なんかに声をかけたんだ? ここにはもっとたくさん、声をかけるべき人がいるだろう?」
「なぜじゃろうな。なんとなく見ていて博士、おまえさんが気になったのじゃ。ひょっとしたら博士は、まだ人生を諦めておらんのではないだろうか。そう直感的に感じたのじゃよ」
 私の何を見てそう思ったんだか。けれど、そう言われたときに一瞬、心の奥が熱くなったのを覚えた。この桜島という老人は、私の何を見てそう思ったのだろうか?

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