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コーチ物語 クライアント16「落日のあとに」その2

 それから病院の談話室で二人と食事をとった。近くのお弁当屋のものではあったが、いつも食べる食事よりもなんだか美味しく感じた。
「そうですか。こちらのミクさんは羽賀さんのお弟子さんなんですか。お若いのにすばらしいですね」
「いやぁ、すばらしいだって。なんだか照れちゃうな。でも専門学校に通いながらなんで、まだまだ中途半端な弟子ですけど」
 ミクさんは自分のことを謙遜してそう言う。が、私から見ればそれはすごいことだ。そしてなにより、この若いミクさんを弟子につけて学ばせている羽賀さんもすごい。なんでもコーチングとかいう、人のやる気を上げさせるための技術を使って、いろんな人の手助けをしているとか。この話には興味を持たざるを得なかった。
「神崎さんは今は何をやられているのですか? 入院してしまって、お仕事とかは大丈夫なのですか?」
「あはは、心配はいりません。私はもう仕事はしていませんから」
「でも、年金をもらうにはまだお早い年齢のように見えますが」
「はい、早期退職をしました。退職金の上乗せもあって、今はそれで妻と二人で暮らしています」
「あれっ、さっき独り身だって言っていませんでしたっけ?」
「えっ、そんなこと言いましたっけ?」
「ほら、一人で食事をするよりもたくさんいた方がいいって」
「あぁ、そんなこと言いましたね。実は妻がこの病院に入院しているんです」
「あ、それでさっきのお医者さんが神崎さんのことをよく知っていたんだ」
 ミクさんはなかなか観察力がするどいな。
「ところで、お二人はお時間とか大丈夫だったんですか?」
「えぇ、久々にミクと食事にでも行こうかと思って出てきたところだったんですよ」
「本当なら舞衣さんも一緒だったはずなのにね」
「舞衣さん、というと?」
「はい、私の事務所があるビルのオーナーの娘さんで。一階でお花屋さんをしているんです。いつもお世話になっているので今日も誘ったんですけど。急ぎで大口の仕事が入ったからって」
 羽賀さんはちょっと残念そうな顔をした。そこでミクさんがそっと耳打ち。
「羽賀さんね、舞衣さんとホの字なのよ。でもお互いになかなか進展しなくて。周りで見ているコッチの方がやきもきしちゃうの」
 ははは、羽賀さんってなかなか奥手な方なんだな。でも、人柄はとてもよさそうだ。
「しかし、コーチングというお仕事は今の社会にはとても必要ですね。もっと早く羽賀さんに出会っていれば、私も会社を辞めずに済んだかもしれないのに」
「何かあったのですか?」
 ここで私は思い切って会社を辞めた経緯を羽賀さんにお話した。
 企業人として猛烈に働いてきたこと。しかし社長が代替わりしてから合理化を目指しすぎて、昔ながらのアナログ的な方法が徐々に認められない風潮になってきたこと。やれインターネットだ、メールだという方法にばかり目を向け始め、私たちのようなITオンチと言われる人間が徐々に排除されてきたこと。
 そして決定的だったのは、私が不倫が原因で妻と別れたことだった。
「人の上に立つ人間がそんな低堕落な経歴を持っていたのでは部下に示しが付かない、とまで言われました。私が妻と別れたのはもうかなり昔のことだし、そのことはみんな知っていましたから。それを承知で今まで部下も私についてきてくれたのに。新社長としては、単なる人減らしの口実なのはわかっていましたよ」
 なんだか話をしてすっきりした。なにしろこんな話は他の人にはできないから。しずえは私が会社を辞める時には、もうアルツハイマーの症状が出ていたし。
「そうなんですか。そんなことがあったんですね。企業って人で成り立っているのに、なかなかそこに目を向けずにシステムとか仕組みばかりに力を入れているところがまだまだ多いですからね」
 羽賀さんも私と同じ思いを持っていると感じられて、とても安心した。
 それからしばらく話を続けていたら、もう病院の消灯時間前。
「今日はありがとうございました。なんだかとても気持ちのいい時間を過ごさせていただきました」
 私の正直な感想である。まさかちょっとした事故が縁でこんな素晴らしい方と巡り会えるなんて。
「いえいえ、こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。明日、午前中に退院のお迎えに参りますから」
「そんなことまでしていただかなくても結構ですよ。それにお仕事があるのではないですか?」
「ボクは明日の午前中は大丈夫です。車でお迎えにあがりますよ」
「あれ、羽賀さん車って?」
 ミクさんが不思議そうな顔をした。ということは羽賀さんは車は持っていないのか?
「昼に唐沢と会う約束をしてるから。あいつを使うよ。それにさっきの神崎さんの話を唐沢にも聞かせたいんだ。あいつのことだから、早速ビジネスチャンスに変えるはずだ」
「なるほどぉ。唐沢さんならやりかねないわね」
「えっと、唐沢さんというと?」
「あ、すいません、こっちで勝手に話を進めちゃって。唐沢というのはボクの友達でコンサルタントをやっているんです。昔は会社の同期で一緒に仕事をしていたこともあって。それでときどき一緒に仕事をしているんですよ」
「なるほどぉ。ひょっとしたら私のいた会社が仕事になるかもしれない。そういうことですね」
「えぇ、唐沢は若手経営者には結構ウケがいいんです。そしてそういった頭でっかちな経営者の意識を変えて行くことに生きがいを持っているやつですから」
「ぜひそうして欲しいですよ。私があの会社を去ってからまだ一年経っていませんが。今の不景気でしょう。このままじゃあまり良い方向には向かないと思っているんです。ぜひそうしてあげてください」
「その言葉は心強いですね。ありがとうございます。では今日はこのくらいで。ではまた明日」
 そうして羽賀さんとミクさんは帰っていった。私の足の痛みも、あの二人と話をしていたらどこかに行ってしまったようだ。
 ベッドに横たわり、今日起こったことを思い出してみた。いつものようにしずえのお見舞いに来て、美咲ちゃんと雄大くんが訪ねてきたことを知った。まだ私とのわだかまりが心にあるのだな。
 そして帰り道、自転車とぶつかり足を捻挫してしまった。だがぶつかった相手がよかった。コーチングをやっている羽賀さんと、その弟子の女の子のミクさん。二人とも良い人だったな。
 さて、私はこれからどう生きていこう。貯金もそんなにたくさんあるわけではない。が、しずえがもう長くないということを知らされたのも今日だったな。でもこれは覚悟ができていたので、それほどショックではなかった。
 まずはしずえの残された時間。これをどう充実させてあげられるか。その方が問題だ。私にしてあげられることは何なのだろう。
 そのことを考え込んでいたら、いつしか夢のなかにいた。
 夢の中で、私はしずえと綺麗な花畑を散歩していた。一面に咲く菜の花。遠くには桜の花も咲いている。そうか、季節は春か。
 しずえは無言で私に微笑みかけてくれる。私もそれに笑顔で答える。
 言葉はいらない。心が通じ合っていればそれでいい。そう、心さえ通じ合っていれば。
 だが突然不安という嵐が私たち二人の前に襲いかかった。それは本当の嵐となり、強い風と雨が私たち二人を引き裂いた。
 しずえの心が見えない。本当に私のことをわかってくれているのだろうか。ひょっとしたらしずえはもう私という人間をわかってくれてはいないのではないか。
 そんはなずはない、そんなはすはない。
 そう思えば思うほど、しずえは遠くに連れ去られてしまっていた。
「しずえ〜っ!」
 大きく叫んだところで目が覚めた。汗をびっしょりかいている。
 そうか、夢だったのか。けれど夢で見た不安は現実にも感じられる。
 しずえは本当に私のことをわかってくれているのか。いつもその不安が心の中にあった。アルツハイマーで実はもう私のことがわからない。ただ毎日やってくる人としか認識していない。そうではないのだろうか。
 その不安をいだいたまま、私は朝一番でしずえのいる病室へと駆け込んだ。

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