見出し画像

コーチ物語 クライアントファイル15「弟子入り志願」その6

 こうして毎日羽賀さんの事務所に通い、コーチングのコツを少しずつ身につける日々が続いた。その中で時々羽賀さんからボク自身の夢や目標といったことについても触れてくれる。おかげで自分の未来に向かうことが楽しく感じられるようになってきた。
 そうして一ヶ月が経ったころ、思いがけない事件が起こった。
「あ、母さん。どうしたの、突然?」
 それは一本の電話から始まった。電話の主は広島の実家の母。実家は農業をやっていているのだが、父と母のふたりだけで経営。ボクには弟がいて、実家の隣町にには住んでいるのだが、商社の営業マンをやっているせいでほとんど実家には帰っていないらしい。そういうボクもコンピュータの技術を学ぼうと思って大学時代からこの土地に移り住み、実家にはほとんど顔を出していない状況なのだが。
 そのせいで実家ともだいぶ疎遠になってしまった。が、さすがに職を失ったことだけは伝えておかないとと思い、久々に手紙は書いて送っていた。それが羽賀さんのところに通いだしてすぐの頃。
 そんなときに母から電話がかかってきたのだ。
「史明、よく聞いておくれ。お父さんが、お父さんが……」
 母の声はここで涙ぐんでしまった。ま、まさか、オヤジの身に何か起こったのか?
 嫌な予感は的中した。
 涙ながらに語る母の言葉を拾うと、こういうことだった。農作業中に誤って農機の上で足を滑らせて転倒したらしい。高さはたいしたことがなかったのだが、打ちどころがあまり良くなかったようで。命には別状はないけれど、手足がしびれてまともな作業ができない状況だとか。
 それが起こったのが一週間前。
「どうしてすぐに知らせてくれなかったの?」
「お父さんが、お前には心配かけたくないって、そう言うから……でも、お母さん一人じゃ何もできなくて……」
 そう言って母はまた涙ぐむ。
 オヤジは昔から頑固なところがあった。だがボクたち兄弟の良き理解者でもあった。
 ボクが大学の進路を決めるとき、今からは情報化社会だからコンピュータの技術を身に付けたいと言ったら、黙って首を縦に振ってくれた。
 その頃から弟の正明は農業はやりたくないと言っていた。そうなると誰もこの家の農業のあとを継ぐ人がいなくなる。
 そのことについて何も言わないオヤジ。母はかなり心配をしていたのだが。
「オヤジのこと、正明には伝えたのか?」
 聞けば正明は海外出張中らしい。そのせいで連絡がつかないとか。
 居ても立ってもいられない気持ちになった。今すぐにでも戻らなきゃ。そのことを母に告げると、意外な返事が帰ってきた。
「お父さん、あんたの手紙を読んですごく喜んでいたのよ。普通なら職を失ったらどこでもいいから働き口を探そうとするもんだ。でもそんないい加減な気持ちで職についても長続きはせんだろうって。ところが史明は違う。自分の生きがいを見つけたんじゃ。じゃからあいつの思うままにやってみるがいい。その代わり、そのコーチングというもので胸を張って人様の前に堂々と立てるまではこの家には帰ってこさせとうない。ここで帰ってきてしもうたら、また甘えがでるじゃろうけんって」
 オヤジ、そんなことまで考えていてくれたのか。思わず涙がこぼれてしまった。でもどうすればいいんだ? 何もせずこのままというわけにはいかない。
 とりあえずこの日は電話を置いた。自分が実家に帰るためには、コーチとして仕事をやり始めることができるくらいにならなければいけない。そうでなければオヤジはオレを追い返すだろう。
 しかし母一人で農作業をやらせるわけにもいかない。まぁボクが帰ったところで農作業の邪魔になるだけなのはわかっている。でも、このままというわけにはいかない。
 この二つの矛盾をどうやって解決すればいいのだ。
 悩みに悩んだあげく出した結論。それは……
「羽賀さんにコーチングをしてもらおう」
 思い立ったら行動。ボクは早速羽賀さんの事務所に向かいながら電話をかけた。この日はミクが学校が休みで午前中から事務所にいた。ミクに大まかなことを伝え、羽賀さんにコーチングしてもらいたい旨を伝えたのだが……
「困ったなぁ。羽賀さん、ついさっきクライアントさんから電話があって出かけちゃったのよ。今日は夕方まで帰ってこないわ」
 羽賀さんはだめかぁ。こうなりゃミクでもいい。とにかく今の自分の頭を整理してもらわないと。
「じゃぁミクがボクのコーチングをしてもらえるかな?」
「えっ……ま、まぁいいけど……」
「どうしたの? いつもだったらまかせといてって言うじゃない」
「う、うぅん……実は私も今から出かけようかと思ってたから……」
「出かけるって、どこに?」
「ちょっと友達のところにね……」
 ミク、なんだか口が重たいなぁ。あ、ひょっとして……
「彼とデート?」
「ち、違うわよ。トシはまだそんな仲じゃないしっ」
 どうやら図星だったらしい。しかしミクもまだ若い女の子なんだから。せっかくのデートをボクのことで邪魔しても申し訳ないしな。
「わかったよ。じゃぁ羽賀さんが返ってくる夕方頃に顔を出すから」
「ごめんね、佐藤さん。羽賀さんにはそう伝えておくから」
 結局勢い良く家を飛び出したはいいけれど、行き先を失ってしまった。家に一人でいて考え込んでも頭がグルグル回るだけだし。とにかくどうすればいいのかを考えながら歩きまわってみよう。
 だがこれも逆効果だったかもしれない。家にいても外にいても、結局頭の中はさっきと変わらず。いや、むしろ外にいた方が危ない状況だ。
 家にいれば頭の中はそれだけを考えていればすむのに。外に出ると周りにも気を使わなければいけない。ついさっきも交差点で自転車にぶつかりそうになったし。
 公園にでも行くか。そこのベンチなら一人で考えることができるだろう。
 だが、公園に行くまでの間にも一人の女性とぶつかってしまった。
「あいたっ」
「あ、ごめんなさい」
「もう、気をつけてよね」
 気の強そうな痩せたおばさんだな。だがそのおばさんのそばにいたもう一人の男性から意外な言葉が。
「あれ、羽賀んところにいたやつじゃないか。えっと、佐藤くんとか言ったかな?」
 なんとその男性は以前羽賀さんのところに打ち合わせに来ていた唐沢さんだった。
「へぇ、この人が羽賀くんの新しい弟子なんだ」
 おばさんは態度が一転。ボクのことを興味深く見回し始めた。
「おっ、羽賀の弟子ならこの人を紹介しておかないとな。こちらはプロのファシリテーターをやっている堀さん。ときどき羽賀とつるんで仕事をしたりしているんだ」
 プロのファシリテーター。前に羽賀さんから聞いたことがある。会議の司会進行をやるプロがいるってこと。しかしその技術は単なる司会進行にあらず。そのうちお目にかかることもあるだろうからお楽しみにって言われていた。
 この女性がそうなのか。
 ボクは改めて自己紹介をした。このとき、ついこのことが口から出てしまった。
「実家は広島で両親は農業をやっているんです。でも今朝母から電話があって。オヤジが一週間ほど前に農機から転落して頭を打ったらしいんですよ。そしたら手足がしびれて作業ができなくなったって」
「あらっ、それは大変じゃないの。佐藤くん、すぐに実家に帰ってあげなきゃ」
「でも、そうはいかないんです」
 ここで母から聞いたオヤジの言葉についても伝えた。すると堀さん、ハンカチを取り出して涙をぬぐい始めてしまった。
「うんうん、お父さんの気持ちもよくわかるわぁ。息子が選んだ道に対して、一人前になるまで帰ってくるなって。もう最高の息子思いの言葉よね」
「でもよ、お前さんがコーチングを習い始めてまだ一ヶ月くらいだろう。そんなんじゃ胸を張って帰郷するなんてことできねぇだろう。その間おめぇのおふくろさんは一人で農業をやることになるのかよ。それも困る話だなぁ」
「そうなんです。だから悩んでいるんです。どうしたらいいでしょうか?」
「とりあえず立ち話もなんだから、羽賀の事務所にでも場所を移すか」
「あ、でも羽賀さん夕方までクライアントさんのところに行っていないそうです」
「ミクは?」
「あ、彼女なら今日はデートみたいで」
「ったく、トシと自転車でどっかに行きやがったな。でも心配するな。あそこにはもう一人、舞衣さんという心強い味方がいるからよ。むしろミクよりも舞衣さんの方が頼りになるからなぁ」
 そう言って笑いながら足を進める唐沢さん。結局ボクは唐沢さんと堀さんの後をついて行く形で羽賀さんの事務所に向かうことになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?