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コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」13.万物生々 前編

 横山さんの仕事をやると決めてから、私の生活は大きく変わった。いや、私の心が変わったというべきか。
 さすがにすぐには工場を辞めるわけにはいかない。引き継ぎなどもあるが、私の仕事は生産ラインから遠ざかっている位置にいたので、それほど大きな影響はなかった。
 それよりも気になるのは、まだ改善途中になっている仕事。こればかりはやりきっておかないと。
「濱田さん、これはこんな感じでいいんっすかね」
 いつの間にか私には、部下のような立場の若者、田中くんがつくようになっていた。田中くんの立場は生産管理という仕事。ついこの前までは、旋盤を回していた技術者だったのだが。社長や工場長が大きな人事異動を行って、これからはもっと自動化とそれにともなう管理者を増やすことを決断した。その第一弾として、田中くんに生産の全体をみてもらうようになった。
 おかげで、私のやっていたことの後継者のような形で、田中くんと一緒に仕事をすることに。望めばそれは必ずやってくるものだな。あらためてそれを感じる。
 その一方で、私には妙な欲が湧いてきた。それはお金に対しての欲。
 今までもお金は欲しかった。けれどそれは、被害者に対しての補償と生活に対してのもの。必要なものがあるからこそ、欲しかったお金。
 今はどうなのか。紗弓の保険金の500万円があるためか、生活に対しては若干余裕がでてきた。贅沢はできないが、そこまであくせくして働かなくてもよいという気持ちが湧いてきた。
 さらに、被害者に対しての補償も私がお金を得るまでは待ってくれるということになった。そのため、前ほど必要性を感じなくなった。
 つまり、私自身に対してそれほど急いでお金を必要としなくて良い状況になったのだ。にもかかわらず、私はお金が欲しくなってきた。
「早く大きなお金を手にして、紗弓や太陽にもっといい暮らしをさせてあげたい。旅行にも行きたいし、そのうち家だって欲しい。おいしいものも食べたいし、少しくらい贅沢もしたい」
 そんな欲が湧いてきたのだ。けれど、そのくらいは誰だって持っている。今までその欲がなかったほうがおかしいくらいだ。
 そう思い始めたあたりから、いろいろと変なことが起こり始めた。
「あれ、このラチェット変な音がする」
 工具の一つ、ラチェットレンチから異音がする。けれど、今やっている作業の手を止めるわけにはいかない。そう思った矢先
パキンッ
と音が。その瞬間、ラチェットレンチが壊れてしまった。
「ありゃりゃ、この工具、もう古くなっていたのかな」
 仕方ない、別の工具を使うか。けれど、手に馴染んでいた工具だっただけに、他のものだと今ひとつしっくりこない。
 さらにこんなことも。
「濱田さん、メジャーどこにありますか?」
「あぁ、工具箱の中にはったはずだけど」
 田中くんからそう言われて、あらためて工具箱の中を見る。が、入っているはずのメジャーが見当たらない。
「おかしいなぁ。この前使ってここに戻したはずだけど。まぁ、メジャーくらいなら100均にも売っているから、買っておくか」
 そう気軽に考えるようになった。こんな感じで、何かがなくなったり壊れたりということが、しばしば起きるようになった。それも一日に二、三回も。
 これは仕事場に限ったことではない。家に帰っても、こんなことが起きた。
「あれ、テレビつかないよ」
 リモコンのスイッチをいくら押しても、テレビがつかない。電池切れかと思って電池を入れ替えても、つく気配がない。
 幸いテレビには本体スイッチがあるから、それでなんとかしのげたが。このテレビもちょっと古くなったからかなぁ。
 他にも、買ったばかりのコップが意味もなく欠けたり、太陽の靴が片方なくなったり。何か呪われているのか?
 まぁいい、ダメになったものは買い直せばいいんだから。今は安いものがたくさんあるから、そういったものならそれほど家計にも影響はでないだろうし。
 あと一週間ほどで工場を退職という日。この日は羽賀さんが工場にやってきてコーチングをしてくれる日。私は個人的に羽賀さんのお世話になっているので、できるだけほかの人にコーチングを受けてもらうようにしているのだが。この日に限って、羽賀さんの方から私の指名があった。
「そういえば、この前我が家で晩ごはんを食べてもらって以来、羽賀さんにはお会いしてなかったなぁ」
 そう思いつつ、応接室へ。
「濱田さん、もうすぐここでのお仕事も終わりですね」
「はい、おかげさまで後継者もできて、いい感じで進んでいます」
「ところで、最近身の回りで今までと違うこと、起きていませんか?」
 その言葉で私はドキリとした。羽賀さんはエスパーなのか?
「あ、いや、大したことは起きていませんが」
「それならいいんですけど。ちょっと気になったことがあったものですから」
「気になったこと?」
「はい。失礼を承知でお伝えさせていただいてもよろしいですか?」
 失礼を承知でってことは、私にとってはあまりよろしくないことなのか?
「は、はぁ……」
 一体何なのだろう? 羽賀さんは私の何に気づいたというのだろうか。
「濱田さん、顔つきが変わった気がします。以前の濱田さん、目はキラキラしていました。落ち込むことがあっても、そこには必ず何かを達成してやろうという野望のようなものがあった。けれど今は……」
 ここで羽賀さんはお茶をひとすすり。そして、一度大きな呼吸をして、ふたたび私の目を見る。
「今は、目の輝きがなくなっています。それどころか、欲にまみれて目の前の大切なモノを見失っている。そんな印象を受けます」
 羽賀さんのこの言葉はショックだった。そういったことを言われたことがショックだったのではない。私自身が、そうなってしまっていたこと。このことがショックだった。
「そ、そう見えるのですか……私が欲にまみれて、目の前の大切なモノを見失っているって……」
「濱田さんにはちょっとショックだったかもしれませんが。ボクは今まで、たくさんの人を見てきました。だから感じるんです。今の濱田さんには、昔の魅力が感じられません。誠実で、素直で、そしてやることは全力を尽くしてやる。ボクはそんな濱田さんだったから、今までいろいろとお手伝いをしてきました」
「じゃ、じゃぁ、今は、今はどうなんですか?」
「大変失礼な言い方をしてしまいますが。今はお金という欲にまみれた経営者と同じにおいを感じます。目がどんよりとして、輝きを失っている。そして行動が雑になっている。ひょっとして、周りのいろんなものが壊れたりなくなったりしていませんか?」
「えっ、ど、どうしてそれが……」
「やっぱり思ったとおりだ。というか、工場長からその話を聞いていたので、もしかしたらと思って今回濱田さんを指名させていただいたんです」
 羽賀さんの前ではウソはつけない。でも、私が欲にまみれた人間になるのと、物が壊れたりなくなったりするのとはどんな関係があるのか?
 私は羽賀さんの次の言葉を待つことしかできなかった。

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