コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」18.人生神劇 後編
そうして迎えた次の日曜日。紗弓は朝から忙しく振る舞っている。私も部屋の片付け、迎え入れの準備。太陽も私を手伝って、一緒に部屋を掃除してくれる。
そういえば、この公営住宅も手狭になってきたかもしれないな。一家三人が慎ましく暮らすにはちょうどいいんだけれど。こうやって人を呼んだり、仕事を家でするにはちょっと不自由だ。
「そろそろお昼ね。呼んだのは午後五時だったっけ?」
「うん。ちょっとお腹を空かして来てくださいってお願いをしているから。北川さんなんか昨日は、前の日から食べずに腹を空かしてますって言ってたよ」
あの人なら、冗談でなく本当にそうしそうだからなぁ。けれど、そのくらいたくさん食べてくれたほうが、私もうれしい。妻の料理はそれだけ自慢できるものがある。
「ねぇ、あなた、みんなが来る前にちょっと相談があるんだけど」
「ん、なんだい?」
「あのね、今回こうやってパーティーをやることになって思ったんだけど。台所も部屋も、なんか狭いなって思って」
「あ、それ、さっき自分も同じことを思ったんだ。三人で暮らすにはちょうどいいけど。でも、この先人を呼んだりすることもあるだろうし。仕事を家でやることもたまにあるから、自分専用の部屋も欲しいなって」
「だよね。でさ、実は……」
そう言うと、紗弓はとあるカタログを持ち出した。それはマンションのパンフレット。
「いくつか候補をあげてみたんだ。できればあなたも私も、職場から遠くなくて。広さはそれなりにあって。交通もそれなりに便利のいいところ。で、価格は抑えめで。そしたらこれとこれがいいかなって」
紗弓が出してきたのは二つのマンション。一つは広めだが、二人の職場からはちょっとだけ遠い。もう一つは場所は近いが、さきほどのよりリビングが狭いのと、部屋も一つ一つが小さい。価格はどちらも同じくらい。
「あなたのお仕事も安定してきたし。こういうのも考えてもいいんじゃないかって。もちろん、被害にあった方々への補償が優先なのはわかっているから」
そうなんだよなぁ。自分のことよりもまず私が起こしたことの償い、これを優先させないと。けれど、おかげさまでこれもあと少しで支払いが終わる。その後なら、数ヶ月で頭金くらいはなんとかなるかもしれない。
「わかった。この話はまたあとでしよう」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。太陽がまっさきに玄関に出てお出迎え。
「こんにちはー、おじゃましまーす」
なんと、羽賀さんと北川さん、それに横山社長三人が一緒に来てくれた。
「はい、おみやげ。あとでみんなで食べましょうね」
横山社長から差し出されたのは、この辺では有名なケーキショップの箱。中身はケーキらしい。
その後、狭いながらも楽しくパーティーがスタート。
「ではせんえつながら、私から一言みなさんにお礼を伝えたいと思います。こうやって今の仕事をやることになって、それなりに収入を得られるようになったのも、羽賀さん、横山社長、北川さんがいてのことです。本当にありがとうございます。その御礼として今回、このような場を設けさせていただきました」
「濱田さん、堅苦しいのは抜き、抜き。はやく食べないと、ごちそうがかわいそうですよ」
北川さんの言葉で一同が笑い出す。
「そうですね。では乾杯しましょう。カンパーイ!」
「カンパーイ!」
そこからは笑いながら、紗弓の手料理に舌鼓を打ちながら、楽しい時間が始まった。ひとしきり料理を食べて落ち着いたときに、横山社長がこんなことを言いだした。
「濱田さん、ちょっと一つ提案があるの」
「はい、なんでしょうか?」
「あなた、そろそろ引っ越しをしない? もうそれだけ十分な収入も得られているでしょう」
なんと、みんなが来る前に紗弓と話していたことを、横山社長の方から言い出すとは。これには驚いた。
「実はね、中古物件なんだけど、いいところがあるのよ。ここなんだけど」
横山社長が出してきたファイルを見る。広さは紗弓が見つけてきたものよりも広い。さらに場所も私や紗弓の職場にさらに近いところにある。そして一番魅力的なのはその値段である。
「えっ、こ、こんな安い額でいいんですか?」
「中古だからね、新築よりはもちろん安いと思うけど。二昔前なら億ションって呼ばれていた物件だけど、今じゃかなり安くなってるのよ」
「安い理由はそれだけじゃないでしょう、横山さん」
羽賀さんがなにやら訳ありそうな言い方をする。
「ひょっとして、これが出るとか?」
北川さんが両手をぶらりと下げてそう言う。これ、とはおばけのことだ。
「ははは、まさか。そんなのが出てたら住んでないわよ」
「住んでないって、どういうことですか?」
「実はこれ、今私が住んでいるマンションなの。今度、臨海地区に建った新しいところに引っ越そうかと思って。良い買い手がいないかなって思ったら、羽賀さんがこれなら濱田さん一家に住んでもらうのはどうかって提案してくれて」
まさに渡りに船とはこのことだ。驚くべきタイミングでこんな話がくるとは。さきほど、紗弓とその話をしていたことをみんなに伝えた。
「だったら決まり! 代金は毎月の報酬から天引きってことでどう? 定額じゃなく、報酬に対してのパーセンテージで支払うって条件で。これなら変動制だけど、返済で無理をしなくても済むし」
申し分ない条件だ。もうほとんど、二つ返事でOKという状況。
「天は私に味方をしてくれるんですね」
ぼそりとそう言う。すると羽賀さんがこんなことを言ってくれた。
「人生神劇、ですね。人生は神の演劇、その主役は己自身である、です」
「人生は神の演劇、その主役は己自身である……」
羽賀さんの言葉を復唱する。どういう意味だろう?
「人生というのは、私達が一般的に『神』と呼ばれる大きな力によって動かされ、つくられていく。だからといって、主役は神ではありません。私達一人ひとりが主人公なのです。だから、神は今回のような偶然とも思えることを仕掛けてくれます。けれど、最後に判断するのは自分自身、ということなんです」
なるほど、そういうことか。それで納得できた。私が今まで歩んできた人生、これはある意味神に仕掛けられたものである。けれど、そこでの行動や判断一つ一つは自分で行ったこと。あのときこうしていれば、ということは何度もあった。けれど、全て自分で判断をして行動を決めた。だったら、できるだけ幸せになる結末を選んだほうが良い。神は必ず、私達が幸せになるように仕掛けてくれているはずだから。
「羽賀さん、ありがとうございます。今の言葉で決めました。せっかく神がこうやって私の進むべき人生を、ちゃんと仕掛けてくれているのだから。私はその意志に従って生きてみます」
「あなた……」
「濱田さん、すっごくカッコいいっす。俺、なんかジワッときました」
紗弓も、そして北川さんも応援してくれる。だが、もう一人大事な人の意見も聞かねば。
「太陽、もっと大きな家に引っ越そうと思う。それでいいか?」
私は太陽の目をじっと見つめ、その答えを待った。返事はもちろん……
「えぇっ、引っ越しちゃうの? ボク、やだ!」
この言葉は予想外。そしてもう一度、私に仕掛けられた神の演劇をこれから演じることになるとは。このときは予想もできなかった。