コーチ物語 クライアント16「落日のあとに」その5
「そっか、神島さんってすごく奥さん思いなんですね。あ〜あ、私もそんなふうに思ってくれる彼氏が欲しいなぁ〜」
食事が済んだ後、ミクさんはデザートのりんごを剥きながらそんな話をしてきた。
「ミクさんだったらすぐに彼氏できるんじゃないですか。かわいらしいし、私はそんな女性大好きですよ」
「うふふ、ありがと。まぁ自転車バカの仲の良い友達はいるんだけど。でもいざとなったら私より自転車をとりそうな気がするしなぁ」
「へぇ、ミクさんにもちゃんとそんな人いるんじゃないですか」
「えへっ、まぁトシはそれなりに私のことを大切にしてくれてるけど。でもさ、女性にプレゼントするのに、普通なら花束とかケーキとか、そんなものをくれるじゃない。トシったら私へのプレゼントだっていって、自転車のパーツをくれるんですよ。ホント、自転車バカなんだから」
ミクさん、ちょっとのろけてみたいんだな。そんな印象を受けた。そんな話をこんな年寄りにして楽しいんだろうか。そうも思ったが、ミクさんの屈託のない笑顔を見ていると、本当に楽しんで話をしてくれているんだと感じた。
「神島さんは今の奥さんと出会った時ってどうだったんですか?」
「えっ、私ですか? いやぁ、まぁ、あの頃は仕事、仕事で気持ちに余裕のなかった時でしたからね。それに別れた女房との仲も冷え切っていたし。そんなときにしずえに出逢ったんです」
「へぇ、もっとその時のことを聞かせてくださいよ」
ミクさんが剥いたりんごを一口パクリと加えて、私にもっと話をせがんできた。私もなんとなく話がしたくなって、口から先に言葉が出始めてきた。
「あのとき、何かに導かれるように今まで行ったことも無い小料理屋に寄ったんです。その頃は家で食事をしても一人で食べることが多かったですから。まぁ夜遅く帰ってくるってのもありましたしね。だからときどき外食をしていたんです」
「そうなんだ。でもどうしてその小料理屋を選んだんですか?」
「今となってはどうしてなのか、それはわからないんですよ。私は酒飲みでもありませんし、普通なら定食屋とかに行くところですけど。何かに導かれていたんでしょうね」
「わぁ、なんかドキドキしてきちゃった。そしてどうなったんですか?」
「はい。そのときにたまたまお客としてしずえがお友達と来ていたんです。どうやらお友達がたまには外で食事でもしましょうよって誘ったみたいで」
「でも、たまたま小料理屋で一緒になっただけじゃ、今みたいにはならないでしょ?」
「ははは。確かにそうですね。実はそのとき、そのお友達から私に声をかけてきたんですよ。お一人ですか。よかったら一緒に飲みませんかって」
「へぇ、そのお友達って積極的〜っ!」
「これも後から聞いたことですけど、しずえは離婚をした後は一生懸命に生きていて。お友達はそんなしずえにいい男がいないかと思ってなんとか男性とくっつけようと思っていたみたいです」
「そんなときに神島さんが現れたんだ」
「まぁ、そういうことになりますね」
「じゃぁ、それからすぐに?」
すぐに、というのが何を指しているのかはわかった。しかしミクさんが言うと別にいやらしい意味には聞こえない。そのおかげで私もすんなり答えることができた。
「えぇ、実はその日の夜に。私としても始めての経験でした。けれどそれからというもの、私の気持ちはしずえにばかり向くようになったんです」
「そっか。ってことは、そのお友達と小料理屋に感謝しなきゃ、ですね」
「はい。しかしそのお友達は残念なことに二年前に亡くなってしまいまして。まだ若かったんですが、突然の脳梗塞で。これもショックでした」
ここで私もミクさんの剥いてくれたりんごを一かじり。しばしの沈黙。私がりんごを食べるシャリシャリという音だけが家の中に響いた。
「私、この先どうすればいいんでしょうね……」
私自身の心が沈黙に耐えられなくなったのか、ついそんな言葉を口にしてしまった。しかしそれは本音。しずえはあと一ヶ月ほどの命と宣告された。その後、私は何を生きがいに生きて行けばいいのだろうか?
「神島さんのこれから、か……神島さんはどう思っているんですか?」
どう思っている。それが正直わからない。今目の前のこと、しずえのことしか頭にはない。
「しずえが逝ってからじゃないと考えつかないですね。今はしずえのことだけを考えていたい。それが本音ですかね」
「じゃぁ、しずえさんに何をしてあげたいって思っているんですか?」
「何をしてあげたい、か。私はしずえに何が出来るんでしょうかね。今は毎日お見舞いに行って、話をするくらいしかできない。でもその話はしずえの記憶には残らない。今やっていることって、ひょっとしたらしずえにとっては無駄なことかもしれませんね」
私はりんごをもう一口。ふたたびシャリシャリという音だけが家の中に響きわたっている。
その沈黙を破ったのは、今度はミクさんだった。
「神島さん、奥さんに今してあげないと後悔することってないですか?」
「後悔すること?」
ミクさんに言われて考えた。確かに、今のままだと何か心に残ってしまい、後悔してしまいそうだ。けれど今のしずえに何をしてあげられるのだろうか。何かをしてあげたところで、しずえはそれを理解するだけのものをすでに失っているのだから。
「何かをしてあげても、しずえはそれをわかってはくれないでしょうし……」
「神島さん、もっと自分を見つめ直してください。しずえさんがいなくなってしまったあとに、こうしてあげればよかったと思っても遅いんですよ。しずえさんのためではなく、神島さんのために、今してあげられること、神島さんが悔いを残さずにしずえさんを見送るためのこと、それを考えて欲しいな」
「私のために?」
「そう、神島さんのために」
そういう発想は今までなかった。全てはしずえのために。それだけを考えてきた。けれどミクさんは自分の為にそれを考えて、と言う。
ミクさんの言葉は更に続いた。
「あのね、羽賀さんって今でもそれで悔やんでいるところがあるの。こんな話、羽賀さんに無断でしちゃいけないんだろうけど。羽賀さん、昔恋人を、いや奥さんになる人を事故で亡くしちゃったの。しかも羽賀さんはそのとき、一緒に車に乗っていたんだ」
羽賀さんにもかつてはそんな人がいたのか。その最愛の人を目の前で亡くしたとなっては、ショックは大きかっただろう。
「でね、今でもときどきこんな話をしてくれるの。死んだ人の供養って、生き残った自分が満足した人生を送ることじゃないかって。そのためにも、今を悔いの無いように精一杯に生きていたいって。そうしないと、先に逝っちゃった人が悲しむじゃない」
今を悔いの無いように、精一杯生きる。それが死にゆくしずえのためにもなる。ミクさんの言葉は私の心に深く染み込んできた。
「だから神島さんには今悔いを残さない生き方をして欲しいんだ。そのためにも、自分がやってみたいことを考えて欲しいな」
自分がやってみたいこと。今はしずえと少しでも一緒にいること。できればしずえの心にそれが少しでも残ってもらうこと。それ以外に考えられない。
このとき、何かが頭の中を横切った。なんだろう、それ。
思い出せそうで思い出せない。どこかで見たような光景だったような気がするのだが。
「神島さん、どうしたの?」
「あ、いや。今のミクさんの言葉から自分のやりたい事を考えていたときに、ふと何かが頭に横切ったんです。それがなんだったのかがわからなくて……」
「それ、きっと今の神島さんに必要な答えなのよ。どんなことだったか、少しでも思い出せない?」
「うぅん……昔どこかで見た光景だったんだけど……どこだったんだろう?」
私は頭を抱えて思い出そうとしていた。が、それがなかなか思い出せない。なんだか懐かしい、そして心が温まるような……一歩ずつそれを思い出そうとしているのけれど、すぐに別のことが頭に浮かぶ。
「そこにしずえさんはいた?」
「そう言われると、いたような気がします。笑顔で私に話しかけてくるしずえが……」
それがさっき見た光景なのか、それとも自分で今作っている光景なのかはわからない。けれどミクさんの言葉ではっきりとしずえの笑顔が浮かんできた。
「その光景は家の中ですか、それとも屋外ですか?」
「屋外じゃないですね。家の中……といってもこの自宅じゃない。どこかのお店……そうか、最初にしずえと出会った小料理屋。その光景だ!」
このとき、私の頭の中でぼやけていた焦点がくっきりとした。間違いない、さっき頭を横切ったのは、最初にしずえと出会ったあの小料理屋だ。
「ってことは、今神島さんがやりたいことって、ひょっとしたらしずえさんとその小料理屋に行ってみたい。そうじゃありませんか?」
ミクさんにそれを言われた途端、心の奥から何か得も知れぬ感情が沸き上がってきた。無性にそれをやってみたい。しずえと差し向かいで杯を酌み交わし、最初に出会ったあのお店で語り合いたい。そしてそのまま二人で朝まで抱き合っていたい。
私の頭の中では、しずえと一緒にいる物語が出来上がっていた。
「神島さん、神島さん?」
「あ、ごめんなさい」
「神島さん、ひょっとしたら今頭の中でやってみたいことのストーリーが出来上がっていたんじゃないですか?」
「はい、ミクさんの言うとおりです。しずえと最初に出会った小料理屋で、差し向かいで杯を酌み交わし、いろんな話をして、そして二人で朝まで抱き合っていたい。そんな光景ができあがっていました」
「うん、いいじゃないですか」
「でも……でもしずえは末期ガンで外出もままならない状態なんです。それにアルツハイマーでまともな会話だってできません。そんなことできるとはとても思えないんですけど」
「思えないって、誰かに確認したわけじゃないでしょ。明日、早速お医者さんに相談してみましょうよ」
「えっ、でも……」
「当たって砕けろよ。あ、砕けちゃいけないか。てへっ」
ミクさんの笑いで場がなんとなく和んできた。そして、なんだかそれができそうな気もする。
ミクさんは羽賀さんに電話をして、今起きたことを報告し、そして医者に相談する件を話した。
「神島さん、明日羽賀さんにもう一度そのことを話してくれますか? 羽賀さん、お医者さんへの説明に同行してくれるそうですから。私は学校があるから行けないけど、羽賀さんに任せればきっとうまくいきますよ」
ミクさんのその言葉に、私は大きな安心感を覚えた。羽賀さんという存在がそれだけ頼りになる、大きなものだという事がわかった。
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