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コーチ物語 クライアント33「徳の積み方」その8

「私が思う、徳で大事なこと、それは、誰のために徳を積むか、ということなんですよ」
 誰のために。まだ教室はシーンとしている。
「あの……山口さん、誰のためにって、どういうことですか?」
 クラスメイトの一人が手を挙げて質問した。
「まさに言葉の通り、それ以上でもそれ以下でもないよ。誰のために徳を積もうとしているのか、そこを意識したことありますか?」
 誰のために、そんなことを意識したことはない。
「じゃぁ、誰のために徳を積むのが正解なんですか?」
 別の人が質問をした。
「良い質問ですね。実はこれ、絶対的な正解はないと私は思っています。自分のためでもいいし、自分の大切な人のためでもいいし、特定の誰かではなく世のため、人のためでもいいし。大事なのはそこを意識することで行動も変わってしまうということです」
「でも、どうしてそれが大事なんですか?」
 これはオレが質問。すると山口さんはこんなふうに切り返してきた。
「どうしてだと思う?」
「どうしてって、それがわからないから……」
 言いながら母のことが頭に浮かんだ。ひょっとして、母はオレのために徳を積もうと思ったのではないだろうか。オレに恩恵がいくように考えていたのではないだろうか。だから今、オレは母の徳の恩恵を受けている。
 飯島さんは自分に対して徳を積もうとしていた。だから自分へ恩恵を受けた。ということは、誰のためにを意識すると、その人が徳の恩恵を受ける。そういうことなのか。
 これに気づいた瞬間、オレは涙を流していた。母の愛に、母の心に、母の恵みに対して。
「青葉くん、気づいたみたいだね。おそらくお母さんは青葉くんへ恩恵を渡したくて徳を積んでいたのだと思うよ。そして、それを見ることがお母さんの幸せだったんじゃないかな」
 そうなんだ、幸せは誰かが決めるものじゃない。自分で決めるものだったんだ。
 山口さんの言葉はみんなに大きは波紋を生じた。自分も、これから誰のために徳を積んでいくのか、そこを深く考えさせられた。けれど、今は答えは出ない。でも、いつかは母のように、誰かに対して徳を積んでいきたい。そう思ったのは間違いない。
 そして翌日、羽賀さんの事務所へ出かけることに。ここで母の事実について知らされることになっている。
 事務所の建物に到着すると、一階のお花屋さんのお姉さんがにこやかにオレを出迎えてくれた。
「青葉かずひろくんね。羽賀さんから聞いてるよ。今から美味しいお茶を淹れるから、待っててね」
 とてもさわやかなお姉さん。その笑顔を見ているだけで、こちらも気持ちが軽くなる。あ、これも陰徳なのかな。
 お姉さんに案内されて二階の羽賀さんの事務所へ。そこには羽賀さんと、前にうちにきたミクさんが待っていた。
「かずひろくん、ようこそ。じゃぁ、早速お母さんのことについて話をさせてもらうね」
 ちょっと身構えるオレ。一体どんな事実が出てくるのだろうか?
「かずひろくんにとって、ちょっとショックなことになるかもしれないけれど。でも、どうしてお母さんがあんなに一生懸命だったのか、おそらくこれでわかると思う」
 ゴクリとつばを飲む。緊張が走る。オレにとってショックなこととは、どんなことなのだろうか?
「まず、君がお父さんと呼んでいた人。これは実は戸籍上はお父さんじゃないんだ」
「えっ、ど、どういうことですか?」
「かずひろくんの戸籍謄本を調べさせてもらったよ。そうしたら、かずひろくんは戸籍上お父さんはいないことになっている」
「じゃ、じゃぁ、あの人は誰なんですか?」
「戸籍上はかずひろくんのお父さんじゃない。けれど遺伝子上はかずひろくんのお父さんであることは間違いない。そしてもう一つ、大きなことを告げないといけない」
「大きなこと……」
 再び、ゴクリとつばを飲む。
「それは、君のお母さんは本当のお母さんではない。戸籍上はお母さんだけれど、遺伝子上は母親じゃないんだ」
「じゃ、じゃぁ、本当の母親は?」
「ややこしい話だけれど。本当のお母さんはかずひろくんの遺伝子上のお父さんの奥さん、つまりかずひろくんには別のお母さんがいる」
 どういうことだ? じゃぁ、どうして母はオレを育てていたんだ?
「本当のお父さんとお母さん、二人の間にかずひろくんが生まれた。けれど、お母さんは当時お父さんの不倫が問題で、ノイローゼになっていたんだ。その浮気相手というのが……」
「オレの母、そういうことですか?」
 羽賀さんは黙ってうなずいた。そして羽賀さんの話は続く。
「本当のお母さんはかずひろくんを産んですぐに自殺してしまった。しかし、産まれたばかりのかずひろくんを世話する人がいなくて。そこで、お母さんがかずひろくんを引き取って、養子にして育てることにしたんだ。けれど、お父さんはお母さんと籍を入れることなく、亡くなってしまった」
 まさかの事実に声も出なかった。羽賀さんはさらに言葉を続けた。
「おそらく、お母さんは不倫相手として、自殺をした相手の方への罪滅ぼしとしてかずひろくんを育てたと思う。立派に育てることが、自分のやるべきことだと思ったんだろう。だからこそ、何に対しても一生懸命になって、そしてかずひろくんの手本になろうとしていたんだとボクは思うんだよ」
 泣こうとした。けれど泣けなかった。悲しいとか、そういう感情ではない。心の奥が熱くなる。それがなんなのかはよくわからない。
 オレがいたから、かあさんはこんなに苦しんだのか? 母さんを苦しめたのはオレなのだろうか?
「お茶、淹れたよ」
 このとき、花屋のお姉さんがお茶を差し出してくれた。オレは無意識にそのお茶を手にとり、口に含んだ。
「あ、母さんの味がする」
 この瞬間、オレが思い出せる最大の笑顔で微笑んでいる母の姿が目に浮かんだ。そしてこう言っている。
「かずひろ、あなたがいてくれて幸せだった。ありがとう」
「かあさん……」
 このとき、涙があふれてきた。オレは母さんの愛に包まれて育ってきた。母さんは決してオレを恨んではいない。むしろ、オレがいたからここまで頑張ってこれたんだ。そのことが今、ようやく理解できた。
「かずひろくん、お母さんは最初は罪滅ぼしのつもりでいろいろとやってきたんだと思う。けれど、それはとっくの昔に終わっていたこと。そのあとは良い種を蒔いて、かずひろくんに、そしてまわりの人に幸せな気持ちを与えること。それを意識していたんだと思う。だから、その恩恵を今、かずひろくんが受けることができているんじゃないかな」
「はい」
「じゃぁ、かずひろくんはこれからどういう生き方をしていくかな?」
「母に負けないように、多くの人のために働きます。それが自分に還ってこなくても、オレはまわりの人が笑顔になればそれでいい。いや、その笑顔がオレの幸せになる。そんな人生を歩んでいきたいです」
「そうか。ボクも応援するよ」
 羽賀さんのところで知らされた事実。最初はショックだった。けれど、この事実を知ったからこそ、母が何を思って生きていたのかがわかった。
 オレも母に負けない、たくさんの徳を積んでみんなの笑顔を広げていく。それを心に誓った。
 これがオレの徳の積み方。これがオレの生き方。そして母に捧げる愛の形。

<クライアント33完>

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