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コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」11.勤労歓喜 前編

「お世話になりました」
 妻の紗弓が退院する日。私は休みをもらってその付き添いにやってきた。紗弓の症状は軽かったおかげで、今では普通の生活ができている。しかし、まだ同じようなことが起こる恐れはあるという。
 大事なのは、過度なストレスを溜めさせないこと。これは医者からきつく言われている。だからといって、紗弓のわがままにさせるという意味ではない。いろんなことを夫婦で話し合って決めて、よりよい方法を探っていくことが大事である。
 これも医者から言われた言葉だ。私はこの言葉を胸に刻んで、紗弓と向き合いながらこれからの人生を暮らしていくことに決めた。
「あなた、保険金のこと聞いた?」
「あぁ、驚いたけど。でもありがたいな。紗弓の稼ぎがなければ、暮らしていけないところだったから。とはいっても、このお金に甘えてばかりいられない。もっと私がしっかりと働かないと」
「そのことなんだけど……」
 帰りのタクシーの中での会話。紗弓がその先、何を言いたいのかはなんとなくわかっていた。だが、私が黙りこんだため、タクシーの中ではそれ以上言葉を交わすことはなかった。
 家について、紗弓は早速お茶を淹れる。紗弓には無理をさせたくはないが、今はやりたいようにやらせるほうがよいと判断。黙って紗弓の行動を見守った。
「お茶、どうぞ」
「ありがとう」
「でさ、さっきの話の続きなんだけど」
 これについては、正直なところまだ私には抵抗がある。私には才能がある。そう言われても未だにピンとこない。それどころか、私のどこにそんな才能と呼べるものがあるのか、まったくわからない。
「その話だけどさ。紗弓は私のどこを見て、才能があるなんて思ったんだ? 羽賀さんからその話を聞いた時に、すごい才能と言われても全くわからないし。そんなことで周りに迷惑をかける方が、私にとっては苦痛なんだ」
「そんなことない。あなたは自分で気づいていないだけ。現に、工場ではいろんな改善提案を思いついては実行しているじゃない。あなた、今まで工場でいくつの改善をしてきたか覚えてる?」
 正直、そんなのはいちいち覚えていない。確かにたくさんの改善提案を出して、それを実行してきた。大きなものから小さなものまで。今では現場から一歩引いたところで、工場全体の効率を上げるための仕事をさせてもらっている。
「私、羽賀さんに調べてもらったの。あなたが工場でどれだけの貢献をしているのかを。羽賀さん、あなたの勤めている工場全体を指導しているって聞いたから。そうしたら、今までの提案で200を超えるっていうじゃない」
「そんなの、大したことじゃないよ」
「大したことじゃない、じゃないのよ。おかげで生産効率が30%も上がっているらしいし。さらにコストダウンの効果もあるって聞いたわ。社長や工場長がすごく喜んでいるって。あなたにはすごい才能があるの」
「そうなのか? 私はただ、思いついたことをやっているだけなんだけど」
「それがすごいのよ。その思いつき、ひらめきが。それを事業化できれば、さらに多くの人が助かると思わない?」
 多くの人が。その言葉に私は反応した。私はもっと社会貢献してみたい。その願望はある。けれど、そんなことをやっている場合じゃない。今は目の前の仕事を一生懸命やって、少しでも私が被害を出してしまった方へ償いを行うのか。それしか考えられない。
「ね、一度横山さんに会ってみない?」
「まぁ、羽賀さんとも約束したから、会うだけは会うけど……」
 まだ気乗りはしない。しかし、約束は守らないと。
「じゃぁ、横山さんに連絡をしてみるね。あ、そうだ。あなたもそろそろ携帯電話を持たないと」
「それはいいよ。特に不便じゃないし」
「あなたはそうかもしれないけれど、周りの人が不便なのよ。あなたに連絡をとりたくても、なかなかつかまらないから」
 そう言いながら、紗弓は横山さんに電話をかけ始めた。
 それにしても、右脳開発ってどういうことをやるんだ? 私は一瞬、頭に電極を付けられて実験台になっている姿を思い浮かべた。ひょっとしたら、そういった実験体にさせられるんじゃないだろうか?
「横山さん、土日だったらいつでもいいって。あなたもお仕事は休みでしょ」
「あ、あぁ」
「じゃぁ、土曜日の午後に約束するね」
 今日は月曜日。まだ時間はあるな。一度羽賀さんに会っておきたい。本当に私でいいのか。私のような人間が世の中の役に立つのだろうか。
 とりあえず、羽賀さんに連絡を取るためにポケットに小銭を入れて公衆電話へと足を向ける。
「ただいま留守にしております」
 残念ながら、羽賀さんの携帯電話は留守番電話だった。会いたいという要件だけを伝えて電話を切る。
 こういう場合が困るのか。羽賀さんが私に連絡をとりたくても、私に会うには工場に来てもらうか、私の家に来るか。もしくは紗弓を経由するしかない。私が困らなくても、周りの人が困る。確かに紗弓の言うとおりだな。
「ただいま」
「あなた、どこに行ってたの。ふらっとでかけたから」
「いや、羽賀さんに連絡をとりたくて」
「その羽賀さんから電話がかかってきたのよ」
 しまった。やはり自分の携帯電話を持たないといけないのかな。でも、今はそんなお金ないし……。
「あなた、やっぱり携帯電話をもってくれないかな。お金なら心配ないから。私の保険金が降りるし。私も仕事に復帰するのはもう少し先にするけど、当面の生活費は心配しなくていいから」
「でも……」
 なんだか申し訳ない。そう言いかけたのだが、紗弓はさらに言葉を続けた。
「それにね、私はあなたにあなたらしい仕事をしてほしいの。申し訳ないけれど、今の工場の仕事だけでは、あなたらしいとは思えない。あなたはもっと世に出るべきよ」
「世に出るって、私にはそんな資格はない。私は犯罪者なんだよ」
「そんなの関係ないわ。あのホリエモンこと堀江貴文さんだって、刑務所に入っていたじゃない。けれど、今は世の中のためになる仕事をしている。私はああいう人を尊敬するわ。自分の信念に従って、世の中に役に立つ仕事をする人を」
 世の中の役に立つ仕事をする、か。私だってそうしたい。けれど、本当に私にそれができるのか?
「それにね、もう決めたの」
「決めたって、何を?」
「私、あなたのために仕事をしたい。あなたが世の中の人のために仕事をするために、それができるようになるために。私はあなたをサポートする仕事をしていきたい。それが私の喜びなの」
 私が世の中の人のためになる仕事をする。それが紗弓の喜び。その言葉は私を勇気づけてくれた。そうなると、あとは私が一歩踏み出せばよい。そういうことになる。
「私ね、今まで保険のサポートの仕事をしてたでしょ。そこで思ったの。私は人のサポートをすることが喜びになるんだって。私は主役にはなれない。けれど、主役を助ける仕事ならできる。そうやって主役が輝くのを見ること。これが私の喜びなの」
 ここで思い出した。医者の言葉。
『いろんなことを夫婦で話し合って決めて、よりよい方法を探っていくように』
「わかったよ。まずは羽賀さんにも相談して、それから横山さんに会って決めてみる」
「あなた、ありがとう」
 今は紗弓のストレスにならないこと。これを第一に考えていくことにしよう。

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