コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」4.運命自招 後編
「あの……夜分にすいません。濱田ですが……」
薄暗い寮の食堂、そこで声をひそめて電話をした相手は羽賀さんである。
「あ、濱田さん。どうしたのですか?」
「実は、ちょっとご相談があって。今、大丈夫でしょうか?」
そう言っている間に、十円硬貨がガシャンと落ちる音がする。正直、手持ちの小銭では相談事は終わりそうにない。
すると羽賀さん、それを察してくれたのかこんな提案を。
「濱田さん、時間は遅いですが今からそちらに伺ってもよろしいですか? 相談事はじっくりと取り組んだほうがいいでしょう」
「えっ、いいんですか?」
「はい、もちろんです。じゃぁ、十五分ほどお待ち下さい」
この言葉には涙が出るほどうれしかった。それにしても十五分とは。羽賀さんの事務所の場所は知っているけれど、あの人確か自転車だったよな。どう考えても三十分くらいはかかると思うのだが。
部屋に戻り、自分の中の問題点を今一度整理してみた。
まずは日曜日に妻と息子の太陽に会えること。これは羽賀さんへのお礼を兼ねてではある。が、私の中でもう一つある感情が湧き上がっている。
それは、もう一度一緒に暮らさないか、ということ。これを言い出すかどうかがまずひとつ目の問題。
そしてもう一つ、こちらのほうが大問題。工場長から月曜日までに、自分が打ち出した改善提案を実施するように言われたこと。これは工場のラインが止まっている時でなければできない作業。ということは、日曜日に出勤をして行わなければいけない。そうなると、妻と息子に会う時間がなくなる。
同時に飯山さんから言われた、改善を元に戻すという問題。これについては突っぱねたいところだが、人間関係を損なうわけにもいかないため、どう判断すべきか悩んでいる。
こんなことを紙に書きだしたところ、ノックの音が。
「濱田さん、羽賀です」
はやっ。十五分と言いながらも、十分ちょっとしか経っていない。
あわてて羽賀さんを出迎えて、私は外の自動販売機でコーヒーを買ってくる。
「すいません。こんなに早く来られるとは思わなかったので」
そういいながら、羽賀さんにコーヒーを手渡す。すると羽賀さんは私がテーブルの上に残した問題点のメモを手にとり、こう言った。
「このメモの内容が、濱田さんが抱えている相談事ですね。概要は理解しました。まず取り組むべきは、日曜日の改善提案だと思うのですが」
「はい。これに取り組むと、日曜日の羽賀さんと妻たちを会わせることができなくなってしまうので……」
そう言うと、羽賀さんはにっこりと微笑んで、こんな言葉をかけてきた。
「濱田さん、今ひょっとして自分の運命を嘆いていませんか?」
「えっ、ど、どうしてそれが……」
「どうして、自分にはこんな困難がやってくるのか。不幸な星の下に生れてきた。そんな気分になっている。違いますか?」
そう言って、またニコリと笑う羽賀さん。その笑みは嫌味ではなく、逆に安心を感じさせてくれる。不思議な魅力を持つ人だ。
それに引き換え、私は眉間にしわを寄せて、うつむきがちで暗い表情。とても笑える雰囲気ではない。
「こんな言葉があります。運命自招、運命は自ら招き、境遇は自らつくる」
「運命は自ら招き、自らつくる……つまり、今の私の状況って、自分でつくり出したってことなのですか?」
「はい。ボクはそう思います」
「でも、でも、私が望んでそうしたわけじゃない。誰も好きでこんな状況を招いたわけじゃない。もっと幸せな生活を望んでいます!」
私は力強く、羽賀さんの言ったことを否定した。が、羽賀さんは私の言葉に対して否定もせず、またにこやかな顔でこう答えた。
「濱田さんの言うとおり、世の中の人は誰ひとりとして不幸は望んでいません。けれど、困難や不幸はどんどん降り注いでいます。だからボクは、いつも笑顔でいることを心がけているんです」
「笑顔でいることを、ですか? それで何か変わるんですか?」
「はい、変わりますよ。まずは物事の捉え方が変わります。あ、今ボクにこんなことが起きているのは、これから良くなるためなんだって。この困難を乗り越えたら、その先にはみんなが笑顔になれることが待っているんだって。そう考えられるようになりました」
「みんなが笑顔に……」
この時思った。私は自分のことしか考えていなかった。工場長から言い渡された、月曜日までに改善を行っておくこと。これをやれば、月曜日からみんなが働きやすい職場に生まれ変わる。
さらに、飯山さんのこと。これも、自分が出した改善が絶対的に良いと思っている。だから、飯山さんの言葉が受け入れられなかった。けれど、飯山さんの立場になれば、使いにくい改善になっていたののかもしれない。
「じゃぁ、私も笑顔でみんなの言葉を受け入れればいいのですか?」
「そうですね。まずは笑顔で受け止めてみてください」
「でも、それで自分の思いや言い分を二の次にしてもいいのでしょうか?」
「やっぱりそう思いますよね。ボクも、自分の都合を二の次にして、相手の言葉を受け入れることはできません。だから、受け入れる前に受け止めてみてください」
「受け入れる、ではなく受け止める?」
「はい。相手の言葉を否定せずに、相手の言い分を理解してあげる。その上でこちらの思いを伝える。そうして、お互いによくなるためにどうすればよいかを考える。これが運命自招です」
なるほど、今まで私は自分の思いと違うと、相手を否定していた。だから不幸だ、困難だと思っていたのか。
「じゃぁ、日曜のことはどうすれば……」
「もうちょっと視野を広げてみましょう。改善提案のための作業は、ラインが止まっていればできるんですよね」
「はい。でも、明日も工場は動いていますから」
「明日のいつまで?」
「えっ、そ、そりゃ、仕事が終わる五時半まで……あ、そうか!」
「何か気づきましたね」
「工場長に残業を申請します。残業が受け入れられないのであれば、無償でも土曜日の夜作業をやらせてもらいます。何も、日曜日に出てくる必要はないんですよね」
「ぜひそうしてみてください。じゃぁ、もう一つの飯山さんの問題、これは何か思いつくことは?」
「そうですね……飯山さんの作業をあまり変えずに、安定して製品を運べる改善はないのか……」
「まずは、今の状況を図にしてみましょうか?」
そうやって、羽賀さんを前に、今の状況と改善の狙いを図にしてみた。ここで羽賀さんと一緒に、さらによい改善がないかを考えることに。
「あれっ、こんなに大掛かりな変更じゃなくても、こうやってみたら……」
羽賀さんが図に一筆書き加えた。なるほど、そういうやり方もあったか。これは盲点だったな。これなら、飯山さんの手間はほとんど変えずに、しかも大掛かりではなく変更もできるな。
「ありがとうございます。これで工場の方はなんとかなりそうです」
「そうなると、問題はもう一つ。奥さんとお子さんとのことですね」
これについては、私はもう一つの結論を出していた。
「はい、運命自招。運命は自ら招き、境遇は自らつくる。これは私がはっきりとした判断を行って、これからしっかりと行動します」
「わかりました。楽しみにしていますよ」
羽賀さんは私の言葉に、今日一番の笑顔で応えてくれた。それに対して、私も自然と笑顔が出せるようになっていた。