コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」8.疾病信号 前編
妻の紗弓、息子の太陽と一緒に暮らし始めて一週間が経った。仕事の上でも新しい暮らしにようやくなれてきたので、私は妻の紗弓と再度籍を入れることを決意した。
この日は土曜日、久しぶりに家族三人で出かけることに。役所に婚姻届を出して、お昼はちょっとしたお祝いとして食事に行くことに。といっても、ぜいたくはできないのでファミリーレストランではあるが。
太陽は上の階に住む一つ年上の雄大くんのおかげで、明るい顔に戻っていた。どうやら雄大くんがいじめを気にかけてくれて、いろいろとかばってくれているという。太陽にとっては、頼りになるありがたい兄貴分ができた。
だが、太陽が元気になっていく反面、紗弓の顔色が今ひとつすぐれないことに気づいた。
「紗弓、あまり元気ないようだけど。何かあったのか?」
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れているだけ」
紗弓の仕事は保険の事務の仕事。営業マンのバックアップ役だと聞いている。その仕事でつらいことでもあったのだろうか? だが、それ以上のことは聞くことができなかった。
紗弓はファミレスでもあまり食べることはなかった。サラダ系のものを注文していたが、それでも残してしまう始末。これはどこか悪いに違いない。
「紗弓、本当に身体は大丈夫なのか? 病院に行かなくてもいいのかい?」
「うん……ごめんね。せっかくあなたと復縁できた記念日なのに。帰ってゆっくりさせてもらえば、きっと回復するから」
私は紗弓のその言葉を信じるしかなかった。しかたない、今夜は私が晩ごはんを作ってみるか。といっても、今まで大した料理なんかしたことはない。かろうじてご飯を炊いてレトルトや缶詰などで腹を満たす程度。
「せめてカレーくらいつくってみるか。太陽、手伝ってくれるか?」
「うん!」
太陽はにこやかな顔でそう返事をした。早速帰りにスーパーに寄って、カレーの材料を購入。
「紗弓は寝てていいから。私と太陽でなんとかやってみるよ」
「わかった、ありがとう」
そう言って紗弓は布団を敷いて休むことに。私と太陽は早速張り切ってカレー作りに励んだ。
包丁を持つのはいつ以来だろう。じゃがいもの皮むきって、こんなに難しかったのか。お肉ってどのくらいの大きさに切ればいいんだ?
そんな感じで試行錯誤しながら、ようやくルーを入れてしばらく煮込めばいいという段階まで来た。つぎはご飯の準備。そういえばお米はどこだ?
「紗弓、お米はどこにあるんだい?」
そう言いながら、紗弓が寝ている部屋のふすまを開ける。すると、紗弓は横になってすっかり寝入っているようだ。せっかく眠っているところを邪魔してはいけない。そう思ったが、なんだか様子がおかしい。
「紗弓、おい、紗弓、大丈夫か?」
私のいる方向に背を向けていたので、あわてて反対側に回る。すると、紗弓はこれ以上ないというほどの渋い顔で頭の両側を押さえ込んでいる。
「おい、紗弓、どうした?」
「あたまが……あたまがいたい……」
紗弓は声を絞り出してそう訴えてきた。これは一大事だ!
「救急車を呼ぶか? おい、大丈夫か?」
呼びかけても返事をしてくれない。これはよほどひどいのではないか?
救急車を呼ぶか、それともこのままにしておくか……いや、ここは救急車だ!
けれど、私は携帯電話を持っていない。我が家に電話もひいていない。唯一あるのは紗弓の携帯電話だが、どこにあるのかわからない。どうする?
少し考えたが、これしかない。
「紗弓、待ってろ!」
私はあわててお向かいの家の呼び鈴を押した。
「はいはい、どなたですか?」
「向かいの濱田です。すいません、救急車を呼んでくれますか!」
「えっ、救急車? ど、どうしたの?」
「妻が、妻が頭痛がひどくて苦しんでいるんです。お願いします」
「わ、わかったわ。ちょっと待ってて!」
お向かいのおばさん、急いで救急車を呼びに行ってくれた。私は一度家に戻り、不安な顔の太陽に向かってこう伝えた。
「太陽、お母さんの具合がとても悪くなっている。これから救急車でお母さんと一緒に病院に行ってくる。お前、一人で留守番できるか?」
「うん、わかった」
わかった、と言ってもまだ小学三年生。そんな子どもを一人残しておくのも不安。ここはお向かいのおばさんにお願いをするしかないか。
ほどなくして救急車がやってきてくれた。救急隊の人に状況を伝え、さゆみは運ばれていった。私もそれに付き添うことに。
「すいません。太陽は残していきますので、様子を見てもらってもいいですか?」
「えぇ、わかったわ。太陽くんのことはまかせて」
そう言って私は救急車と一緒に病院へ。紗弓は未だに頭を押さえて辛い表情を浮かべている。
病院について検査を受ける。私はその結果を待つしかない。さて、困った。これからどうすればいいんだ?
「あれ、濱田さん。どうしてここに?」
そう言って声をかけてきたのは、なんと羽賀さんである。
「羽賀さんこそ、どうして?」
「いやぁ、私がお世話になっているビルのオーナーのひろしさんが、ハシゴから落ちて足をけがしちゃって。それで入院しているんですよ。そのお見舞いに」
「そうでしたか……」
「で、濱田さんは?」
「実は……」
私は、今紗弓が救急車で運ばれたことを羽賀さんに伝えた。その上で、私に今何ができるのだろうか、と問いかけてみた。
「そうだったんですね。それは心配でしょう。で、濱田さんに今何ができるか、ですか……なかなか難しい問題ではありますが」
「紗弓、昨日までは普通だったのに……一体何が……」
「一つ質問してもいいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
「あれから奥さん、周りの方とのトラブルとかは起きていなかったのですか?」
「トラブル……そういえば、先週近所のご挨拶回りに行って以来、その話は全然していなかったな」
「これはボクの勝手な想像なのですが。ひょっとしたら、奥さんの周りの方と何らかの人間関係トラブルが起きているのではないか、と感じました。それがストレスとなって、奥さんの不調に現れたのかも」
「人間関係のトラブル、ですか。まぁ、ありえなくはないと思いますが……」
「それともう一つ。奥さん、この一週間は濱田さんと一緒に暮らして、いつもとは違う家庭のストレスを感じていなかったでしょうか?」
「私と一緒に暮らすことのストレス?」
「あ、誤解のないように。濱田さんの存在がストレスという意味ではありません。この一週間で、今までとは違う生活パターンになったり、というところからくるストレスです。これは奥さんも知らないうちに圧迫されているものかもしれません」
「確かに、私という存在が突然紗弓の生活の中に現れたのですから。そういう意味ではストレスなのかもしれませんね」
「これもボクの勝手な想像ですが。奥さんは濱田さんに元気に働いてもらおうと思って、今までよりも無理をしていたところがあったのでは、と感じたんです」
「そうなのかもしれませんね。じゃぁ、原因を作ったのは私?」
「いえ、そう決めつけないで下さい。奥さんは濱田さんのことを思ってやっていたことなのかもしれないのですから。この一週間、夫婦での会話はいかがでしたか?」
「夫婦の会話、ですか。まぁそれなりに普通かと。主には太陽のことについての話ではありましたが」
「なるほど。ちょっと読めてきました。ボク、ちょっと調査してきます。わかったらまたご連絡しますね」
「はい。ありがとうございます」
そう言って羽賀さんは病院から駆け出していった。でも、一体何が読めたのだろうか?
そうしていると、病院の先生が私のところにやってきた。