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コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」9.明朗愛和 後編
だが、同時に不安も襲ってくる。
「羽賀さん、言っている意味はわかるのですが……でも、現実問題として、私が正しい心を持って、明朗愛和で人に接したとしても、全員が私たちに対して同じような気持ちで接してくれるものでしょうか? 特に、紗弓に対して悪いうわさを流している相手に対して……」
世の中、そんなに甘くはない。今、頭に思い浮かんでいるのは、私を特殊詐欺に引き込んだ西谷の顔。あいつは今頃私のことを恨んでいるはずだ。刑務所の中で、私に対して復習をしてやろうと思っているに違いない。なにしろ、私がすべてをしゃべったことで、西谷は捕まってしまったのだから。
「確かに、ボクの言っていることは理想論かもしれませんね。じゃぁ、もう一つ別のお話をしましょう。濱田さん、ここにアメがひとつあります。これ、どうやったら増えると思いますか?」
「えっ!? アメを増やす、ですか? えっと……そのアメを割る、とか?」
「あはは、それじゃ数は増えますが、実質的な量は増えませんよね。では今からそれを実践してみます。はい、どうぞ」
羽賀さんはそう言って、そのアメを私に渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
あっけにとられる私。これでアメが増えたといえるのか?
そんな表情をしているのを見て、羽賀さんは言葉を加えた。
「このままじゃもちろんアメは増えません。では、仮に濱田さんがしばらく経ってから……」
そう言うと、羽賀さんはバッグからアメがたくさん入った袋を取り出し、私に渡した。
「こうやって、アメをたくさん手にしたとしましょう。さて、どうしますか?」
「はぁ、まぁ先ほどアメを頂いたお礼として、羽賀さんにお返しをします」
「では思った通りにやってみてください」
羽賀さんがそう言うので、私は羽賀さんにお返しのアメを一つ渡そうとした。が、ここでふと思いアメを三つ羽賀さんに手渡した。
「ありがとうございます。ほら、これでボクのアメは一つから三つに増えましたよね」
「あ、確かに」
言われて見るとそのとおりだ。
「ではお聞きしますが、ボクにアメをお返しするときに、どうして一つじゃなく三つ渡そうとしたのですか?」
「はい、私はこれだけたくさんのアメを持っているのだから、先ほど頂いたお礼として一つだけじゃなんだか申し訳なくて。だから三つ渡しました」
「これなんです。これが明朗愛和の正体です」
「えっ、どういうことですか?」
「与えたものは必ず返ってきます。しかも、利子を付けて。良いものを相手に与えれば、それは何倍にもなって自分に戻ってくる。もちろん逆も同じことが言えます。相手に悪いものを与えれば、何倍にもなって自分に戻ってくる」
「つまり、相手を信じて良いものを与え続けることが大事、ということですか?」
「はい、だからいつも笑顔で、ニコニコした顔で人を愛していくこと。これこそが幸せを得るための秘訣です。相手に悪い考えを持ってしまうと、それは必ず自分にそのまま戻ってきてしまいます」
「だから、どんなことがあってもまわりの人を愛し続けることが大事、ということなんですね」
「はい。正しい心を持って人に接する。愚痴を言わない、攻撃しない。どんなことがあっても、まわりの人を愛する心、これを持つこと。そうすれば、まわりの人が必ず濱田さんに味方してくれます」
正直なところ、まだ半信半疑である。けれど、紗弓のストレスを減らし病気を治すにはそれしかない。
「わかりました。今言われたことを心に刻んでおきます」
羽賀さんは私の言葉に対して、笑顔で返事をくれた。
「ではそろそろ病院に行ってきます。おーい、太陽、行くぞ!」
「はーい」
羽賀さんにお礼を言って、私はバスで病院へと向かった。このとき、明朗愛和を何度も意識をしながら周りを見回した。すると、老人が乗ってきた時にすぐに席を譲ることができた。また、降りる時も我先に降りるのではなく、先を譲って最後に降りることができた。なんだか晴れやかな気持ちだ。
「あれ、あなた、何かいいことあったの?」
病室に入るなり、紗弓からそんな言葉が飛び出した。
「えっ、どうしてだい?」
「だって、なんだかニコニコしているし。いつものあなたとは違って見えたわ」
そうか、気持ちをこうやって持つだけで、表情が変わるのか。そして妻の紗弓を幸せな気持ちにしてあげられる。たったこれだけでいいんだ。
私は羽賀さんから聞いた言葉を、紗弓にも伝えた。
「さすが羽賀さんね。明朗愛和かぁ、思っていてもなかなかできないよね。でも、私もがんばってみる」
紗弓は小さくガッツポーズをしてみせた。その姿が私と太陽にとって、どれだけ元気づけられたことか。
この明朗愛和の効果は絶大だった。翌週、仕事場でも明朗愛和を意識しながら人と接したところ、多くの人から声をかけられた。
「濱田さん、なんかいいことあったの?」
「今日の濱田さん、なんだか違うよね」
「濱田さんと仕事をしていると、こっちまで元気になるよ」
こうやって声をかけられることがうれしい。さらに、西谷工場長からこんなことも言われた。
「うちの妹が濱田さんの奥さんに対して、妙なうわさを流しているんだってね。本当に申し訳ない」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
本心はそうは思っていなかったが、ここで腹を立てても意味は無い。「明朗愛和、明朗愛和」そう頭のなかで何度も意識をしながら、西谷工場長の言葉を聞いた。
「妹にはさらに厳しく言っておいたから。奥さんがそんなことする人じゃないことは、私もよくわかっている」
「えっ、でも、うちの妻には会ったことはないんじゃ……」
「直接は会ったことないけど、うちに来ている保険屋さん。彼から聞いたんだよ。その保険屋で事務をしているのが濱田さんの奥さんだって聞いて。突然入院したって聞いたから、もしかしたらと思って詳しく話を聞いたけど。すごくよくできた人で、助かっているって聞いたし。そんな人柄のいい人が、うちの妹が言っているようなことするわけがない」
このとき、羽賀さんの入った言葉が理解できた。明朗愛和を意識して続けていれば、まわりの人が助けてくれる。こういうのは本当に多くの人が見てくれているんだ。
「あ、ありがとうございます。ありがとうございます」
私は涙を流しながら、西谷工場長の手をとって感謝の言葉を何度も伝えた。本当に嬉しかった。心から私たちのことを信頼して見てくれているんだ。
「それに、もう一つ濱田さんに対して感心していることがあるんだよ。あれだけうちの妹が悪いうわさを流しているにも関わらず、濱田さんも奥さんも、それに対してうちの妹に文句をいうわけでもなく、攻撃してくるわけでもなく。逆に、元気に振舞っているじゃないか。いやぁ、人間ができているなぁって思ったよ」
一時期は私に対してパワハラとも思える行為をしていた西谷工場長。その人が私に対して、こんな言葉をかけてくれるとは。あの頃は、私自身が周りをそういう目で見ていたからこそ、周りもそうやって自分に返してくるんだ。
万象我師、だったな。目の前の人は自分の鏡、自分の想いが相手の態度になる。そのことも実感できた。
「ところで、濱田さんの奥さんって保険に入っていたんじゃないのかな? 三大疾病特約の」
「えっ、そんなのに入っていたんですか?」
「いやぁ、その保険屋さんがそんなことを言っていたから。3大疾病といえば、ガンと心筋梗塞、そして脳卒中だろう。奥さん、クモ膜下出血だって聞いたから、脳卒中に当てはまるって言ってたぞ」
これが本当ならば、とても助かる。このことが私のこの先の人生を大きく変えることになるとは。このときはまだ知る由もなかった。