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コーチ物語 クライアント16「落日のあとに」その3

「あら、おはようございます」
 息を切らして、足を引きずりながらしずえの病室に駆け込むと、そこにはにこりと微笑む彼女の姿があった。私を見て何事もなかったようにあいさつをする。どうやらまだ私のことがわかっているみたいだ。
「あぁ、おはよう」
 私はあらためてしずえにあいさつをした。
「あら、今日はお早いんですね」
 隣のベッドの患者さん、年齢はしずえと同じくらいだろうか、その女性が私にそう声をかけてくれた。
「あ、はい」
「あれ、足はどうかされたのですか?」
 女性は私の足に包帯がまかれているのに気づいたようだ。
「ちょっと捻挫をしてしまいまして」
「あらぁ、気をつけてくださいね。私の母なんですけど、もう十年も前に死んでしまいましたが。足を骨折して入院して以来寝たきりになってしまいまして。それと同時にボケもきましてねぇ。やはり体を動かさないと頭もダメになってしまうものなんでしょうかねぇ。私もそうならないように、こうやってパズルで頭を鍛えてますよ」
 そう言って女性はパズル雑誌を私に見せてくれた。確かにこの女性の言うとおり、体を動かしていないと頭もうまく動かなくなるだろう。そういう意味では、一日中ベッドにいるしずえの頭は日に日に衰えているのかもしれない。
「でもホントにいい旦那さんですね。こうやって話しかけてくれる人がいるのが一番いいんですよ。私のところなんか、休みの日しかお見舞いに来てくれやしないんだから」
 夫婦ってそういうものなのかな。自分のことで精一杯で、相手のことは二の次になるのだろうか。私はそんなふうにはなりたくない。しかし、前の妻だったらそうしていたかもしれない。
 だったらどうしてしずえにはここまで尽くしてあげられるのだろうか。どうしてこんなに愛情を与えることができるのだろうか。
 ふとしずえに目をやった。しずえもそれに気づいてこちらを見る。お互いに目が合う。するとしずえはにこりと笑う。
 これだ、この笑顔が見たいんだ。この笑顔が私に安らぎを与えてくれる。それが私の生きる活力となる。だからこんなにも愛情を注いであげられるのだ。
 私もにこりと笑う。だがしずえの次の言葉は私にショックを与えた。
「どこのどなたか存じませんが、いつもありがとうございます」
 私は暗い海に叩き落とされた感じがした。
 その後、朝食が始まったので一旦病室に帰ることにした。だが、私はどこをどう通って自分の病室に帰ったのかを覚えていない。まさか、しずえは私のことがわからなくなっていたとは。どこかの親切な人が毎日やってきていた。その程度の認識しかなかったのか。
 これほどまでに落ち込んだことはなかった。
 病気のせい、それはわかっている。わかっているけれど、どうしても自分の中で納得がいかない。私のことだけは忘れないだろう、そう思っていたのに。
 私に出された朝食にはほとんど手をつけられなかった。
「おはようございます」
 食後に私がベッドに座ってボーッとしていると、羽賀さんが現れた。もう一人スーツ姿の男性も一緒だ。
「あ、おはようございます」
 私は気の抜けた返事をした。いけないとわかっていても、力が入らない。
「神島さん、なんだか元気がありませんね。足、痛むんですか?」
「いえ、足は大丈夫です」
「そうですか。あ、こっちが昨日お話した唐沢です。もしよければ昨日の神島さんの話をもう一度していただけないかと思って」
「あ、はい」
「神島さん、やはりどこか具合が悪いのでは? お医者さんを呼んできましょうか?」
「いえ、ご心配には及びません。さぁ、行きましょうか」
 私は足を引きずりながら廊下へと出た。退院の手続きはいつの間にか羽賀さんがやってくれていたようだ。
 唐沢さんの車に乗り込んだ後も、私は黙って空を眺めるだけだった。何も考える力が湧いてこない。
「神島さん、何か心配事があるんじゃないですか?」
 羽賀さんにそう声をかけられたが、どう返事をしていいのか頭に浮かんでこなかった。それだけ今朝のしずえの一言は、私にとっては大きな出来事だった。
「唐沢、すまないけど一度病院に引き返してくれるか」
「えっ、どうしてだよ」
「神島さん、病院に大きな忘れ物をしてきたみたいだ」
「忘れ物って、病室を出るときにちゃんと確認しただろう?」
「いいから、引き返してくれないか」
「わかったよ」
 そうして私は再び病院の前に立っていた。
「神島さん、忘れ物を取りに行きましょう」
「私は何も忘れ物は……」
「いえ、大きな忘れ物をしていますよ。さぁ、行きましょう」
 羽賀さんは私の手を引っ張って前に進んで行く。私の足を気遣ってか、ぐいぐい引っ張るようなことはしない。
 エレベーターに乗ると、羽賀さんはこう質問してきた。
「奥さんの病室、何階ですか?」
「えっ!?」
「奥さんの病室ですよ」
「あ、えっと、三階です」
 羽賀さんは3のボタンを押し、しばらく待った。そして三階につくと次はこの質問。
「奥さんの病室はどちらですか?」
「あ、そこのナースステーション側の一番奥です」
「じゃぁ行きましょう」
 今度は私が前になって進んで行く。そして再びしずえの病室の前に立った。
「さぁ、行きましょう」
 だが私の足は前に進まない。その理由はわかっている。怖いのだ。またしずえに他人扱いされるのが。それが怖くて私の歩みを止めている。
「大丈夫。奥さんはちゃんとわかっていますよ。そして待っています。神島さんが訪れてくれることを」
 羽賀さんはまるで超能力者だ。私が恐れていることを見抜いている。
 だが私の中の何かが病室に入るのを拒んでいる。どうしても足が前に進まない。
 羽賀さんの顔を見た。羽賀さんはにこりと笑って首をゆっくりと縦に振った。それは無言で「さぁ、行きましょう」と訴えていることがわかった。
 恐る恐る足を前に踏み出す。そして一歩ずつ、ゆっくりとしずえに近づいていく。
 しずえのベッドはカーテンで仕切られていた。眠っているのだろうか?
 私が近づいた瞬間、カーテンがさーっと開けられた。
「あら、あなた。今いらっしゃったの?」
 私の顔を見て、しずえは「あなた」と呼んでくれた。たったそれだけの言葉だったが、私には大きな感激だった。
 気がつくと涙があふれていた。しずえは私のことを忘れてはいなかった。
「あ、あぁ……」
「どうなさったの? そんなにいっぱい泣いて」
「いや、ちょっとな」
 心が落ち着いた。しずえは私のことを忘れてはいなかった。それがわかっただけでも気持ちが大きく安らいだ。
 それからしずえに羽賀さんを紹介。どこまでわかっているのかはわからないが、しずえは笑顔で私の話に耳を傾け、大きくうなずいてくれていた。
 そして一旦帰ると伝え、病室を後にした。
「羽賀さん、ありがとうございます。でもどうして羽賀さんは私をしずえのところに連れていこうと思ったのですか?」
「すいません、急に勝手な行動をしてしまって。でもひょっとしたらと思ったんです。奥さん思いの神島さんが、朝一番に奥さんのところに行かないなんてことはない。そうでしょ?」
「はい。しずえのところに向かいました」
「けれど元気がなかった。足も体調も悪くない。とすれば心の問題だ。考えられるのは、奥さんとのことで何かあった。そう考えたんです」
「はい、その通りです。でもどうしてしずえが私のことをわからなくなった、なんてことが羽賀さんにわかったんですか?」
「そんなことはさすがに私にもわかりませんよ。ひょっとして奥さんと喧嘩をした、とか。そんなことかと思って」
 羽賀さんの洞察力には驚かされた。そこまで私のことを見ていたとは。そして素早い対応。このおかげで私は元気を取り戻すことができた。
「でも、どうしてしずえは朝一番のときに私がわからなかったのでしょうか?」
「原因ははっきりとはわかりませんが、起きたばかりのときはまだ記憶が混沌としていたのではないでしょうか。アルツハイマーというのは私も専門家じゃないのでわかりませんが、記憶の混濁で神島さんのことがわからなかったんだと思いますよ」
 そうか、あんな早い時間にしずえに会うなんて今までなかったからな。でも、羽賀さんのおかげで本当に助かった。この人になら何でも協力してあげたい。そんな気持ちになった。

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