見出し画像

コーチ物語 クライアント20「日本の危機」 第六章 決断した男 その1

 真っ白なワイシャツにダークグレイのスーツ。そしてネクタイを首に巻く。生やしっぱなしだったひげを剃り、頭髪もきちんと整える。
 こんな姿になったのは何年ぶりだろう。そして、この土地から足を外に向けるのは十五年ぶりになる。
「おはよう」
 私は茶色の鞄を手にしてさっそうと駅に歩く。その途中、すれ違った近所の農家のおばさんにそう挨拶をした。
 おばさん、目を丸くしているのが感じられた。あの人誰? そう言いたげな感じだったに違いない。
 自分でもわかる。この十五年、この土地に移り住んでから見せてきた私とはまったくかけ離れている今の姿。おそらく誰の目からも、私だとは思えないのではないだろうか。
 息子の雄大、そして昔近所に住んでいたひろしさんが昨日、私のところを訪れた。ひろしさんは数日前にも私のところを訪れた。どうやら誰かに頼まれて私がここに住んでいること、そして生きていることを確認しにきたようだ。
 そのときは、もう昔の自分とは違う生活をしているのだからかまってほしくなかった。もう二度と関わろうとは思わなかった。
 だが息子の雄大が来たことで、その気持ちは変わった。いや、もっと正確に言えば、昨日私と電話で話をした羽賀さん。彼が私の心を大きく動かしてくれた。
 その結果、私は決心をした。佐伯孝蔵とは決着を付けなければいけない、と。そのきっかけを羽賀さんが与えてくれるというのだから。私がここで決着を付けなければ、雄大はずっと佐伯孝蔵を追い続けることになる。そして私と同じような末路に転じる危険性もある。だから私は息子のためにそうすることを心に決めた。
「待たせましたね」
 駅には雄大、ひろしさん、そして羽賀さんと一緒に仕事をしているというジンさんが待っていた。
「和雄、おめぇずいぶんと変わったなぁ。一瞬誰かと思ったよ。いや、変わったと言うよりも元に戻ったと言ったほうがいいのかな」
 そう、私は変わったのではなく元に戻った。十五年前のあの姿に。
 十五年前まで、私はリンケージ・セキュリティで働いていた。表向きは総務秘書。社長である佐伯孝蔵の傍にいつもいて、彼の仕事をいろいろとサポートしていたものだ。おかげでいい待遇をさせてもらっていた。
 だが、佐伯孝蔵は裏の顔も持っていた。それは日本国を守るという大義名分のもと、海外のあらゆる情報を一手に集めて当時の日本政府へ情報を与える、ということを行なっていた。
 そのおかげで、日本政府は佐伯孝蔵に頭が上がらなくなってきた。さらにそれが増長され、日本政府へ、正確に言えば当時の与党である相志党に圧力をかけ、さまざまな法制度を佐伯孝蔵に有利な方へともっていくように仕向けたのだ。
 だが十五年前に与党と野党の逆転が起きた。当時、相志党での相次ぐスキャンダルで国民の支持率が低下。その隙に連立政権を組んだ野党に流れを持っていかれ、総選挙で逆転。総理が変わってしまうという事態に陥った。
 そうなると困るのは佐伯孝蔵である。今までは日本政府を相手にしてきたといいながらも、実質は相志党を相手にしてきたようなものだから。政権が変わると、リンケージ・セキュリティ、いや佐伯孝蔵は不要となってしまう。
 そこで佐伯孝蔵が考えたのが、あの航空機事故である。佐伯孝蔵は日本政府に脅しをかけるために、つまり自分たちの情報がなければこのようなテロ事件が日本で起きる可能性があることを示唆するためだけにあの事故を引き起こしたのだ。
 そして、当時この事故を引き起こすためのプロジェクトリーダーを任されたのが私である。
 最後まで決まらなかったのが、誰が実行犯として犠牲になるか。つまり佐伯孝蔵から「死ね」と命令されるわけだ。さすがに誰も手を挙げなかった。
 結局、リーダーである私がその責任を追う形で実行犯を担うことになった。だから私は佐伯孝蔵と取引をした。残された家族を頼む、と。
 だが、直前になって私は裏切られた。
 佐伯孝蔵は、表向きはまかせなさいと言っていた。が、私は知ってしまったのだ。彼の本当の心を。
「あいつの家族は北朝鮮にでも預ければ、余計な心配もしなくていいだろう」
 偶然私は彼のその言葉を耳にしてしまった。いや、偶然ではない。私は佐伯孝蔵が何を考えどう行動していくのか。それを知りたくて彼の部屋に盗聴器を仕掛けておいたのだ。
 佐伯孝蔵は盗聴や盗撮にはとても気を使っている。私にとことんまで調べさせたことがある。だからこそ、私が仕掛けたなんて夢にも思わなかったはずだ。
 たまたまのひとりごとだったのかもしれない。だが私はその言葉で佐伯孝蔵に対しての全ての信頼を失った。だが計画は進めなければいけない。
 そしていよいよ飛行機事故実行の最期の日、私は佐伯孝蔵に向かってこう伝えた。
「私とはこれで最後ですね。もう一度お聞きします。私の亡き後、家族は間違いなく面倒を見てくれるのですね?」
「もちろんだとも。安心して行ってくるといい」
「これでも、ですか?、」
 このとき、私は盗聴した佐伯孝蔵の声の録音を彼に聞かせた。
「きさま、どこにそんなものを………」
「あなたの心がわからない。いや、今の言葉が本音ではないのですか?」
「そんなことはない。と私が言うとでも思うかね?」
 佐伯孝蔵は、その傲慢さは有名だ。私が逆手にとろうとしたことも、まるで見透かしていたかのような態度で私に向かってそういい放した。
「では、この計画はすべて私の手で中断させてもよい、ということですか?」
「フフフっ。そんな脅しはきかんよ」
「脅しではありません。私はこのことを世間に公表するだけの覚悟はあります」
「蒼樹くん、君はバカかね」
「えっ!?」
「私が何の保険もなしに動く人間だと思っているのかね」
「ど、どういうことですか?」
「まぁ、それはもうじきわかる」
 そう言って佐伯孝蔵はテレビをつけた。いったい何が?
 このとき、私は信じられない光景を目にした。テレビの緊急速報のテロップがテレビの上に流れているのだ。
「航空機が行方不明になった………まさか!」
「そう、そのまさかだよ。君がモタモタしているから、私の方で勝手に計画を進めさせてもらったよ」
 このとき、私は始めてとんでもないことをしでかしてしまったと感じた。人の命を、一個人のワガママのために簡単に、しかもたくさん失わせてしまったのだ。
「さて、蒼樹くん。どうするかね?」
「あなたは人間ではない。鬼だ。自分の利益のために人の命を簡単に扱うなんて」
「それのどこが悪い。戦争になれば、指揮官の命令一つで死ににいく連中はもっと大勢いるんだぞ」
 ニヤリとわらう佐伯孝蔵。
「私は告発する。この事実を」
「やれるものならやってみなさい。その前に君が間違いなくこの世から姿を消すことになるぞ。そうなれば家族がどうなるか、わからないぞ」
 脅しているつもりが脅されている。そんなにらみ合いの状況が続く。
「わかりました。私自身はこれから死ぬ覚悟があったからそれでかまわない。けれど家族にだけは手を出すな。家族に手を出すようなことがあれば、私はあなたのことを告発する。そのかわり、家族にさえ手を出さなければ、私はこのことは黙ったままにしておく。これでどうだ」
「ほう、この私と取引をしようというのか。まぁその勇気に免じて、蒼樹くんの言うことに応じてあげようじゃないか。いやいや、なかなか愉快だね」
 そしてその後、私は心を置きに行こうと思った自分の田舎へと引きこむことになる。顔も変え、名前も変え、身分を偽り十五年間この田舎で過ごすことにした。
 だが、私はこの決着を付けなければいけないのだ。なぜなら、今私の家族が危険に晒されているのだから。だから私は立ち上がらなければいけない。
 そうして今、私はここに立っている。十五年ぶりに、蒼樹和雄という身分になって。
「電車がきましたよ」
 田舎のローカル線の一両編成の車両に乗り込む私達四人。もうこの田舎の町に戻ってくることはないだろう。私は十五年間過ごしたこの街に別れを告げ、そして新たな戦場へと足を踏み入れた。
「父さん………」
 雄大は私を見つめ、言葉にならない言葉を私に与えてくれた。どうやら雄大にも昨日私が羽賀さんから聞いたことが伝わっているようだ。そして、なぜ私がここまで決心をしたのか。そのことを雄大はわかってくれたようだ。
「私に任せなさい」
 そう言うと雄大は何も言わなくなった。
 電車は一路、羽賀さんの待つ街へと向かっていった。

いいなと思ったら応援しよう!