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コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」10.破約失福 前編

「濱田さん、そんなに無理しなくても」
「いえいえ、これは私のけじめですから」
 そう言って私はお金の入った封筒を、目の前の人物に手渡す。目の前にいるのは、年齢も七十過ぎたおじいさん。一人暮らしで、人のよさそうな方。
 私はこのおじいさんを含め、五人の人からお金を騙しとった。そのお金を毎月わずかではあるが、返していくことを約束した。裁判の時にそうはっきりと言ったのだから。
 私の裁判の日、このおじいさんが傍聴に来ていたのはわかっていた。だからということではないのだが、刑務所にいる時に私の被害にあった方に手紙を送り、出所したらわずかずつにはなるが毎月お金を返していくことを約束した。
 私にも生活がある。しかも、今は家族とも暮らしている。工場の安い給料では、正直なところかなり苦しい。だからといって、約束したことを守らないほうが私にとっては苦しい。
 妻の紗弓と暮らすときに、このことについても話し合った。
「大丈夫。なんとかなるわよ」
 紗弓はお金については文句は言わなかった。逆に、しっかりと償いをして欲しいということを言ってくれた。
 だが、その紗弓もクモ膜下出血で入院。幸い軽度だったので復帰は早かったが、無理はさせられない。
「あ、いけない。約束の時間に遅れる!」
 時計を見ると、あと五分で三時。三時に羽賀さんと会う約束をしていた。会うのは喫茶店カフェ・シェリー。このお店のおかげで、私は紗弓との夫婦生活を再度始めることができた。
「やばいなぁ。どう考えても間に合わない。くそっ、どうする……」
 こんなとき、携帯電話を持っていれば羽賀さんに遅れることを伝えられるのだが。今の私の身分では、携帯電話を持つことはぜいたくである。
 私は時間の約束をやぶるのが一番キライ。人を待たせるというのは、人の時間を奪うことになる。だから、時間には厳しい。
 けれど、どうしてもこういう日もある。時間が気になりながらも、会う人との話が長引いてしまう。
 こういう間の悪い時には、間の悪いことが重なるものだ。
「おい、濱田、濱田じゃないか」
 交差点でそわそわしながら信号が変わるのを待っていると、隣の人からそう声をかけられた。
「えっ!?」
 声のする方を向くと、そこには前に勤めていた工場の先輩である、岸元さんの姿が。
「あ、岸元さん、お久しぶりです」
「なんだよ、元気にしてたか? 今何やってるんだ?」
 今は流暢に岸元さんと話しをしている場合じゃない。羽賀さんを待たせているのに。
「す、すいません。今ちょっと急いでいるもので」
「おい、久々に会った元職場の先輩に、そんな言い方はねぇだろう?」
 岸元さん、私につっかかってくる。正直なところ、私はこの岸元さんが苦手。いつも先輩面して、いいように私たちを使っていた。そして何より一番この人が嫌なのは、時間にルーズなところ。約束の時間を守ったことは一回もない。
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行くってね。オレよ、ちょっと競馬で儲けたんだよ。よかったらメシ食いに行かねぇか、メシ食いによ」
 この人、絡み始めるとしつこい。
「ホントごめんなさい。今から人と会う約束をしていて。この先の喫茶店に待たせているもので」
「じゃぁよ、オレも一緒に行くわ。喫茶店ならちょうどいいや。そっちの用事が済んだら、メシ食いに行こうぜ」
 岸元さん、悪気があってやっているわけじゃない。こういう人なのだ。逆を言えば、空気がよめない人でもある。
 結局仕方なく、岸元さんを連れてカフェ・シェリーへと行くことになった。約束の時間を十五分も遅れて、ようやく到着。
「羽賀さん、遅れてすいません」
 私の第一声に、羽賀さんはいつものにこやかな顔でこんな返事を。
「濱田さん、気にしなくてもいいですよ。おかげでマスターのおもしろい話を一つ聞けましたから」
 そう言われるとありがたい。というか、羽賀さんは本当にこういうの上手だよなぁ。人を悪い気持ちにさせずに、むしろ良い方向へと促してくれる。
「あれ、そちらの方は?」
「あ、紹介します。私が前に務めていた工場の先輩の岸元さんです」
「ども、よろしくっす。いやぁ、なんか感じのいい喫茶店っすね。ウエイトレスさんもかわいいし」
 いきなりマイさんをいやらしい目つきで眺める岸元さん。正直、この場にはそぐわない。
「岸元さん、私はこれからこちらの羽賀さんと話がありますから。しばらく待っていてください」
「わかった、わかったよ。ところで、待っている間ちょっとだけ話があるんだけどよ」
「な、なんですか?」
 早く岸元さんから離れたい。今はその一心でしかない。さっさと話を終わらせて欲しい。
「次のレース、確実な馬があるんだよ。でな、オレのツレが馬券を買ってくれるんだよ。お前も一口、どうだ?」
「えぇっ、わ、私はそんなお金の余裕は……」
「そんなに大金じゃなくていいんだよ。一万円でどうだ? うまくいきゃ、これが二十万にも三十万にもなるんだからよ」
 岸元さんはそう言って、自分の財布を開けてみせた。確かに、そこには札束がぎっしりと詰まっている。
「いや、それはちょっと……」
「大丈夫だって。お金はオレのツレが立て替えておくからよ。よし、決まった。じゃぁ一万買いな」
 そう言って岸元さんは電話をし始めた。そのとき、その電話を止めた手があった。羽賀さんである。
「えっと、岸元さん、でしたよね。なにやら面白そうなお話のようですが」
「おっ、そっちのあんちゃん、一口乗るかい?」
「えぇ、ただし約束してほしいことがあるんですけれど」
「なんだい。言ってみな」
「まず、確実っていうことでしたよね。ということは、負けた時に保証はしていただけるんですよね」
「ま、負けたときの保証!? バカ言っちゃいけねぇよ。競馬はギャンブルだぜ。それは約束できねぇなぁ」
「では、残念ながらこの話はなかったことに……」
「ちょ、ちょっと待てよ。わかった、わかったよ。一万円だろ。約束してやるよ」
「いえ、一万円じゃありません。せっかくのお話なので、十万円賭けさせていただきます」
「じゅ、十万円だと! それをオレに保証しろってのか!」
「はい、確実、なんですよね。うまくいけばこれが二百万とか三百万円になるってことですよね?」
「お、おう。まぁ、そ、そうだけどよ」
 羽賀さんの言葉に、岸元さんはあきらかに動揺している。
「では岸元さん、あなたのツレにお電話を。あ、その前に文書にきちんと残してもらいましょう。口約束だと、言った言わないって議論になりかねないですからね」
 そう言って羽賀さんは手帳とペンを取り出した。
「おいおい、そんなのカンベンしてくれよ。いちいちそんなことしてたら、レースが始まっちまうじゃねぇかよ」
「では、先に岸元さんのサインと拇印だけいただきましょう。文書はレースの決着が決まるまでに書き上げますから」
「た、頼む、カンベンしてくれよぉ〜」
 岸元さんはそう言って、お店を飛び出してしまった。その姿を見て、私たちは思わず笑い出してしまった。

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