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コーチ物語 クライアント25「カフェ・シェリーの物語」その3

 羽賀さんの一言は衝撃的だった。私は今まで趣味でコーヒーをいろいろな人に淹れてきた。みんな美味しいと言ってくれたし、また飲ませたいとも思っていた。
 けれど、羽賀さんみたいに積極的にコーヒーを飲みたいと言い出した人はいなかった。いや一人だけいるか。
「センセ、またコーヒー飲ませて」
 そう言ってくる人物。マイである。マイはこの頃までは私のことを先生と呼んでいた。なにしろ高校を出てからまだ一年経っていないのだからなぁ。
「羽賀さん、コーヒーで人を感動させることって可能でしょうか?」
「先生が感動した体験があるのなら、それはもちろん可能ですよ」
「いや、私が本当にそれができるのかが不安で……なにしろペンションのオーナーは珈琲道を極めるために、ローストの機械を購入していろいろと研究をして、そしてできたものを提供しています。けれど私にはそこまでやる勇気がない。そこまで資金投資もできないし、時間もかけられない。一体どうすればいいんでしょうか?」
「じゃぁちょっと視点を変えてみましょう。今、先生はひょっとしたら全部自分でやらなければいけない。そう考えているんじゃないですか?」
 言われてグサッときた。確かに羽賀さんが言うとおり、ペンションのオーナーのように全て自分でやらないと人を感動させるようなコーヒーは淹れられないと思っていた。
 私が黙っていると、羽賀さんは私の心を見透かしたかのようにこんな質問を投げかけてきた。
「感動させるコーヒーを淹れるために、先生ができないと思っていることって何でしょうか?」
「私ができないこと……コーヒー豆をローストすること。その研究に時間を割くこと。あとはブレンドをしてオリジナルの味を研究すること。そんな時間とお金の余裕はないですからね」
「じゃぁ、逆にできることとは?」
「そりゃもちろん、コーヒー豆をミルで砕いてコーヒーを淹れること。その技術については自分なりに極めてきたと思います」
「では、できないことを手助けしてくれそうな人っていませんか?」
 これについては前々から考えがなかったわけではない。けれど、そこに乗り出そうという勇気がなかった。でも今は羽賀さんの言葉に誘導されるように、この考えを言葉にしてみることにした。
「あのペンションのオーナーからローストした豆を仕入れることができれば。ひょっとしたら私にも感動できるコーヒーを淹れることができるかもしれません。でもそれって人のふんどしで相撲を取るような気がして」
「そういうことをしている喫茶店とかって邪道ってことですか?」
「いえ、邪道とは言いませんが。なんか自分としては釈然としなくて」
「釈然としない。どの点が?」
「どの点……やはり自分の味ではない、というところですか」
「先生って完璧主義。そう感じちゃいました」
 完璧主義。ひょっとしたらそうかもしれない。今まで成功哲学を学んできて、今現在成功者とは言えない理由がそこにあるのかも。
 多くの成功者は走りながら考えている。まだ準備もろくにできていないのに、とにかく行動を起こしている。もちろんその中にも失敗はある。が、その失敗を糧として次の行動を起こしている。
 じゃぁ私はどうなのか?
 今まで何度かいろいろなことをチャレンジしようとした。が、どれもその準備がきちんとできていないと実際の行動には至らなかった。お金がない、時間がない、人脈がない。もちろんどれも言い訳にすぎない。
 けれど失敗が嫌なのだ。嫌だから完璧に準備ができてからじゃないと事を起こそうとしなかった。そこに今の自分になっている原因があるのは明白だ。
 知識だけは豊富にある。けれどその知識を使わずしてうんちくだけを述べていても、それは机上の空論。実際にそれをやってみて初めて人を納得させる力ができる。なのに私はそれすらやっていない。
 羽賀さんの言葉でそんなことが頭の中に渦巻いていた。
「先生、人の力を借りることってそんなに恥ずかしいことですかね?」
「いえ、そんなことは……でも、周りがどう見るか」
「先生は喫茶店に行って、そのお店のローストでないコーヒーを出しているところを非難したことがありますか?」
「とんでもない。そんなことはありませんよ」
「あれ、じゃぁ先生がローストしてないコーヒーを出したことを誰が非難するんでしょうね?」
 羽賀さんの言うとおりだ。別に私がそれをしなくても、それは私が淹れたコーヒーとしてみんな見てくれる。今だってそうだ。私が淹れたコーヒーをマイは、そして周りのみんなは認めてくれている。美味しいって言ってくれている。
「羽賀さん、私にはなんだか妙なプライドがあったみたいです。まずはそれを捨てないといけませんね」
 私の言葉に羽賀さんはにこりと笑って応えてくれた。それでいい、それが正解なんだ。まずはプライドを捨てよう。
「じゃぁまずどんなことから始めてみますか?」
「そうですね。ペンションのオーナーに掛けあってみます。豆を譲ってくれないか、と」
「うん、いいですね。まずは人を感動させるコーヒー。これをぜひ極めてみましょうよ。私もぜひ飲んでみたいですからね」
「ありがとうございます。そう言われると勇気が出ますよ」
 私は早速昔の資料を取り出した。そもそもあのペンションのオーナーのコーヒーを飲むきっかけとなった雑誌の記事がある。これはスクラップブックにとっている。
「コーヒーは薬膳である」
 この言葉が私のコーヒー人生を変えたと言っても過言ではない。
 コーヒーを飲むと一般的に眠気が覚めると言われている。これはカフェインの作用がそうさせるというのが一般常識だ。しかしこのコラムにはこう書かれてあった。
「コーヒーは薬膳である。その人が今欲しがっている機能を補うことができる。今からやる気を出そうとしている人には興奮剤に。逆にゆっくりと落ち着きたいと思っている人には精神安定剤に。本物のコーヒー豆を使えば、その人が欲しがっている体の機能を回復する手助けをしてくれるのがコーヒーの魅力だ」
 本物のコーヒー豆を使えば。そこに私はすごく惹かれた。そのコーヒーを味わってみたい。そして自分が欲しがっている機能を補ってもらいたい。その思いで私はコラムに書かれているペンションのオーナー、西脇さんを尋ねることにした。
 幸い西脇さんのペンションはそう遠くないところにある。私は早速そのペンションに宿泊を予約し、コーヒーを飲むことにしたのだ。それが羽賀さんと出会う四年前の話だ。
 西脇さんが淹れてくれたコーヒー、これは文字通り薬膳だった。当時の私は学校の授業で悩みがあって、心が疲れていた。今欲しがっているのは癒やし。そしてコーヒーを飲んだその瞬間、私の心は溶けるような感じがした。
「はぁ、生きててよかった」
 これがそのときに漏らしたことばであったことを、スクラップブックを見て思い出した。そんなコーヒーを淹れたいのだ。

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