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コーチ物語 クライアント34「同じ朝日を」その1
あと二ヶ月で五十五歳。その年齢を目の前にして、私は悩んでいた。
私が勤める曙化学は、早期退職制を行っている。早い話が、年寄りはさっさと追い出して、引退してもらおうというものだ。
まぁ、定年までの六十五歳までは勤められるのだが。ただし、肩書は一切なくなる。今まで部下だった人間から使われる立場に変わるのだ。
私の性分としては、それは不本意なこと。今まで威張り散らしてきたわけではないが、やはりそれなりに組織をリードしてきた立場としては、それができなくなるのが嫌なのだ。
だが、私の妻は早期退職は望んでいない。そりゃそうだろう。今まで専業主婦で何不自由なく暮らしてきた。昼間は友達とランチに行ったり、カルチャーセンターで習い事をしてきたりと、自分の時間を自由に使える立場だったのだから。
それが、突然私が家にいるとなると、邪魔者以外のなにものでもない。しかも、収入がパタリとなくなるのだから。これまでの生活ができなくなることが不満になることは間違いない。
五十五歳だったら、まだ再就職もあるのでは。確かに世の中にはそういう年齢を雇用する企業もあるだろう。が、実際に調べたところ、こんな地方都市じゃ皆無に等しい。
私も、再就職は望んでいない。実は心の中に野望が一つ潜んでいる。それは、コンサルタントとして独立開業すること。
幸い、仕事柄のおかげで行政書士の資格は持っている。私は曙化学ではずっと事務方の仕事をしてきたから。それに加えて、税理士の知識もある。残念ながら資格は持っていないが、経理畑も経験したおかげでそれなりに知識はある。
なので、税理士の資格もとって、税務も見ることができる企業の指導員という形で起業を目論んでいる。
だが、その話を妻にしたところ
「何バカなこと言ってんの! そんなことしたら、せっかく老後を悠々自適に過ごそうとしている計画がパーになるじゃないの! 子どもたちもそれぞれ家庭を持ったから、これからは二人のためにお金を使おうって言ったじゃない」
言ったじゃない、というが、言っているのは妻だけで、私はそのことに賛成したつもりはない。これは妻の勝手な夢物語にすぎない。
「私はこれまで、組織の中で仕えてきた。もう自由にさせてもらってもいいじゃないか。それに、早期退職金だとかなり割増になるから、しばらくはそれで暮らしていけそうだし」
「それで暮らすって、ただ貯金を食い潰すだけじゃない。せめて、どこか安定したお給料をもらえるところで働いてちょうだい!」
ダメだ、妻とは根本的に意見が合わない。
このとき頭の中で「熟年離婚」という言葉がグルグルと巡ってきた。なるほど、こうやってお互いの意見が合わなくなるから、お金だけさっさ渡してと離婚したほうがさっぱりするのか。その気持ちが痛いほどよく理解できた。
「とにかく、私は自分の思った生き方をしたい。悔いのない人生を送りたいんだ。それについては邪魔をしないで欲しい」
「じゃぁ、私の人生はどうなるのよ? あなたに三十年も尽くしてきて。あなたの一生にこれだけ付き合ってきた私は、思ったような生き方をできないっていうの?」
「今まで思ったような生き方をしてきたじゃないか。昼間は友だちとランチに行って、カルチャースクールにも行って。働かずにこれだけの暮らしができているのは、誰のおかげだと思っているんだ!」
とうとう言ってやった。前から胸の中にあった思い。だが妻も反撃をしてくる。
「じゃぁ言うけど。誰のおかげでご飯が食べられると思っているの? 私がいなかったら、晩ご飯も食べられないじゃない。それに、掃除や洗濯、さらにはお義母さんの世話まで。私だって遊んでいたわけじゃないの。お金を稼ぐことが仕事だと思ったら大間違いだからね!」
結局この日はお互いに対しての愚痴の言い合いで終わってしまった。だが私は決心した。こうなったら意地でも独立開業してやる。
三日後には早期退職か、それとも会社に残るかを選択しなければならない。いずれにしても業務の引き継ぎや人事の改変が待っているから。
私の心はすでに決まっている。すでに親しい友人や、同期で入社した仲間にはそれとなく「早期退職で独立開業」を伝えてある。だからなのか、会社側もそのつもりで人事を動かそうとしているらしい。
そんなとき、私の部下がこんなチラシを持ってきた。
「アラカンのための創業セミナー? アラカンって、私のことか?」
「そうですよ。北川さんはちょうど対象年齢に入っているから。ちょうど、商工会議所に寄った時に、このチラシを見つけたんです」
あらためて還暦なんて言われると、まだまだそんな年齢じゃない、と反発したくなったが。しかし、退職のことを考えたら、もうそんな年齢なんだなとあらためて自覚させられた。
「この講師の羽賀さんって、私知ってますよ。コーチングの業界では有名な先生です。私は受講したことはないけれど、この人のコーチングセミナーって人気があるらしいですよ」
「コーチングか。私にもそんなセミナーの話があったけれど、ちょうどタイミングが悪くて受講できなかったんだよなぁ。でも、そのコーチングの先生がどうして創業セミナーなんだ?」
「この人、いろいろな指導をしているらしいです。営業セミナーもやるし、この前は婚活セミナーなんてのもやってましたよ。それに、この創業セミナーって今までのものとはちょっと違うみたいだし」
確かに。表面のキャッチタイトルが変わっている。
『まだまだ社会のお役に立ちたい そんなあなたのマインドを磨きます!』
私はこの「マインドを磨く」という言葉に惹かれた。どうやら単なる事業計画書を作成するような創業セミナーじゃなさそうだな。
裏面を見てみる。ここには全十回のカリキュラムが掲載されている。当然ながら事業計画書の作成なんてのがあるかと思ったら、そんなものが見当たらない。逆に目を引いたのが、第一回目のこれ。
「理念を作ろう、か。確かに、事業を行うには理念は大切だからなぁ」
私は事務方として、いろいろな取引先の査定を行ってきた。ここで培ったものとして、この理念の大切さがある。
今まで失敗のない会社というのは、理念がしっかりしており、しかも社員にそれが浸透している。だが、すぐに取引がダメになる会社は、理念すら持っていない、もしくは社長すらその理念を覚えていないという会社。
「これ、おもしろそうだな。早速申し込んでみよう。えっと、開始は……えっ、来週から!?」
幸いにして、講座は夜行われる。私は早期退職をそれとなく会社に伝えてあることから、残業というものをしなくてもいい感じになっている。
「北川さん、もう腹をくくったんですね」
部下のその言葉が私を後押ししてくれた。こうなったら妻の意見なんか関係ない。もう私は私の思った通りの人生を歩むだけだ。
早速申し込み欄に必要事項を記入し、商工会議所へファックスする。これで一歩が開けた感じがする。
だが、このことが夫婦関係をさらに悪化させることになるとは。このときは夢にも思わなかった。