コーチ物語 クライアント17「届け、この想い」その2
「あらぁ、敏博じゃない。早かったわね」
そこには笑いながらお茶をすすっている母さんの姿があった。さすがに目が点になってしまった。
「あらぁじゃないでしょうが。おい、百合、これはどういうことだっ!」
百合をギラリと睨む。すると百合が舌をペロッと出しておどけた顔で登場してきた。
「兄さん、ごめんね。だって母さんにこうしろって言われたからさ」
今度は母さんの方を睨みつけた。
「母さん、冗談にもほどがあるよ。まったく、どれだけ心配したことか」
「だってぇ、こうもしないと敏博は家に帰ってこないじゃない。すぐ近くに住んでいるのに、顔も見せないなんてどういうことよ」
「だからって、騙すことはないだろう。ホントに、迷惑だよ」
「まぁせっかく帰ってきたんだから、お茶の一杯でも飲んでいけば。百合、敏博の分も入れてちょうだい」
「はい」
まったく、うちの母さんは何を考えているんだろうか。でもよく考えたら、母さんがこの時間に家にいることなんてめずらしいな。もう病院は始まっている時間のはずだけど。オレはちらりと壁の時計を見てそう思った。
「どうして私がこの時間に家にいるのか、不思議なんでしょ」
「えっ、なんでわかったの……」
「子どもの考えることくらいお見通しよ。ところで敏博、あなたこの先のことは考えているの?」
この一言でわかった。母さんはこの話がしたくてボクを家に帰ってこさせたのか。今後のボクの進路。これをはっきりさせたくて。
一応ボクは葉山美容クリニックの跡取り息子。この先、七つもある病院をどうやって切り盛りしていくのかを考えなければいけない立場に置かれる。というのがうちの両親の考え方。
ボクはそれが嫌で家を飛びだした。そして大好きな自転車に夢中になっている。けれどそのことを考え無くはない。昨日、それをコーチの羽賀さんに相談したばかりなのだから。
「敏博、あなた学校の成績があまり芳しくないようね。大学には遊びに行かせているわけじゃない。そのことはしっかり自覚してちょうだい」
母さんの顔つきが厳しくなった。昔からそうだ。普段はヘラヘラと笑いながら冗談を飛ばす。しかし、ここぞという真剣な場面ではキリッとした顔つきになる。そうなったときの母さんはとても怖い。怖いと言っても叩かれたり言葉で叱られたりということの怖さではない。実際に今まで手が出たりしたことは一度もない。何が怖いかというと、母さんから発せられるオーラのようなものが、ボクに何かを言わんとする空気。これが怖いのだ。そうなったとき、ボクは母さんには何一つ反撃ができない。
さっきの母さんの一言で、ボクは蛇に睨まれた蛙のように身動き一つとれなくなった。その緊張感を破ってくれたのは百合だった。
「はい、兄さん紅茶を入れたわ。先輩からおいしいクッキーもいただいているから、一緒に食べてね」
「あ、あぁ。ありがとう」
百合の入れてくれた紅茶に手をつけることで、なんとかこの場の重苦しい空気を一新することができた。
紅茶をひとすすりして、とりあえず今考えていることを母さんに伝えなきゃと思い、口を開こうとした。が、それを制止したのは母さんだった。
「まぁいいわ。思ったことをできるのも今のうちかもしれないし。でもね、これだけは覚えておいてちょうだい。あなたはいずれは葉山美容クリニックを引き継ぐ経営者となるの。その前に、しっかりとした整形美容の技術を身につけてもらわなきゃ。お父さんはその技術力で今の地位を獲得できたんだから。もちろん母さんもそう。だから、あなたが大学を卒業したら、アメリカに最新の美容医療の勉強に行かせることにしたから」
「また、そんな勝手に……」
「勝手をしているのはあなたでしょうっ」
またあの目だ。あの母さんの目にはどうしても逆らえない。
「……わかったよ。でもその前にボクの話も聞いて欲しい」
「それはまた次の機会にしましょ。実は母さん、もう出なきゃいけないの。今度は自分の方からこの家に戻ってくるのよ。じゃないと、母さん話は聞いてあげられないわ」
「あぁ、そうする」
「じゃぁ百合、あとはお願いね」
そう言って母さんはそそくさと部屋を出て行った。そしてオレは肩の力が抜け、急に疲れが出てしまった。
「あのお母さん相手じゃ、さすがの兄さんも何もできないね」
百合が茶化すように言ってきた。
「あの母さんをまともに相手できるのは、父さんくらいじゃないかな」
そう言って百合がだしてくれたクッキーを一かじり。んっ、これはうまいっ。今度羽賀さんやミクにも買っていってあげよう。
「でもね、実は母さん兄さんを呼んだのもわかるのよ。母さん、元気そうに見えるけど最近ちょっと様子がおかしくて。たぶん疲労が重なっているんだと思うんだけど。でもあの性格でしょ。絶対にそのそぶりを人には見せようとしないの」
「そうなのか?」
「うん。だからちょっと気弱になっているんじゃないかな。それで、早く兄さんにこの病院を継いでもらう意志を見せて欲しくて、私にこんなお芝居までさせて……」
あの母さんが気弱になっているだって? それは信じられない。けれど、百合の言うことが本当なら。自分の進路をしっかりと決める時期が来たみたいだな。
「わかった、ありがとう。実は昨日自分の進路のことを羽賀さんに相談したんだ。ほら、ボクがいつも行く自転車屋さんで。そしたら羽賀さん、こう言ったよ」
「どんなふうに?」
「その結論はもう自分の中で出ているよねって」
「コーチの羽賀さんらしい答えね。でも私もそう思う。兄さんの中では一つの結論がもう出ているんでしょ」
「あぁ、おそらく」
「で、それを羽賀さんに話したの?」
「いや、話そうとしたらミクが羽賀さんを迎えに来て。クライアントが待っているからって。それで話しそびれてしまったよ」
「へぇ、そうなんだ。話しそびれちゃったんだ。で、羽賀さんになんて言おうとしたの?」
「それは……」
そのとき、百合の携帯電話が鳴った。
「あ、ちょっとごめん」
そう言って百合は携帯電話に出て話を始めた。このとき、もう一度自分の考えていることを頭の中で整理をしてみた。オレは本当にどうしたいのだろうか。その道が正しいのだろうか。それを誰かに聴いてもらいたい。そのことが頭の中でグルグルと駆け巡っていた。
「うん、わかった。じゃぁ今すぐ行くから」
携帯電話を置いた百合に、今の考えを話そうとした瞬間。
「兄さん、ごめん。友達がどうしても今すぐ用事があるからって。私出かけてくるから。話はまた今度ね」
そう言って百合も慌しく部屋を出て行った。リビングで一人取り残された状態。結局何がしたいんだろう、自分は。ソファに腰掛けてボーッとそのことだけを考えてみた。
翌日、羽賀さんにもう一度連絡をとってみた。が、電話に出たのはミク。
「あら、トシ。どうしたの?」
「あぁ、ちょっと進路のことで羽賀さんに相談したいことがあって」
「そうなんだ。羽賀さん、今日はクライアントさんのところへ訪問と、午後からは企業研修、そして夜はコンサルタントの唐沢さんと打ち合わせなのよ。ちょっと時間が空きそうにないのよねぇ」
「羽賀さん、忙しい人だなぁ。仕方ない、また今度にするか」
「ねぇ、私でよかったら話を聞くけど。どうせ羽賀さんは一日いないし。私も急ぎの仕事はないから。事務所に来ない?」
「そうだね、じゃぁそうさせてもらうか」
まぁミクでもいいか。ミクだって今じゃそれなりにコーチングをやっているっていうし。
あれ、今までの自分だったらミクに会えると思ったら喜んで行くところなのに。なぜか今日はそんな気が起こらない。それだけ真剣に悩んでいる証拠なのかなぁ。
自転車にまたがり、ゆっくりとしたペースで羽賀さんの事務所へと向かった。本当に自分がやりたいこと。これがまだ見えてこない。おととい羽賀さんに話そうとした気持ち。これは本当の自分の気持ちなんだろうか? 昨日百合に話そうと思ったこと。これは自分がやりたかったことなんだろうか。複雑な気持ちを抱いたまま、気がつけば羽賀さんの事務所に到着していた。