コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」5.万象我師 前編
土曜日、仕事が終わってから私はがむしゃらに改善作業に取り組んだ。私が残業を申し出ると、工場長の西谷さんは
「あんさんだけの都合で、夜に無駄な電気つかいとうないんやがなぁ」
と難色をしめした。けれど、残業手当はいらないと申し出ると、手のひらを返したように
「ほな、よろしくな」
と言い出す始末。まぁ、コスト管理を任されている立場なので、その思いはわからなくはないが。
夜の作業は、思った以上にはかどった。たった一人で工場にいるのは、寂しい上にちょっと怖いものもあるが。けれど、明日は妻と息子に会えると思うと、どんどん体が勝手に動いてくれる。
「よし、これで完成だ」
時計を見ると、夜中の1時を少し過ぎたところ。自分としては思ったより早く終わることができた。明日は10時に待ち合わせなので、身支度を考えれば8時くらいまでは眠ることができるかな。
これから戻って、シャワーでも浴びて早く床につくか。そう思ったが、もう一つ気がかりなことが。
「飯山さんの件、こいつも片付けないと……」
ここで引き続き作業を行うほうがいいのか、それとも明日に回すほうがいいのか。明日の休出は取り消しているので、工場に勝手に入るわけにはいかない。さて、どうするか……。
「日々好日、思い立ったら即行動、だったよな」
そう自分に言い聞かせて、パレットの改善作業にとりかかった。これについては、それほど難しいものではない。が、数が多いため時間がかかってしまう。
「こういうのは、パートのおばちゃん達にまかせてもいいんだけど。でも、自分で言い出したことだからなぁ」
そう自分に言い聞かせる。が、心の奥では別の想いが湧いている。他の人には任せたくない。これを全部自分でやったんだって、みんなに認めてもらいたい。そして、飯山さんや工場長を見返してやりたい。
つまり、打算的な想いが働いている。それがわかっていながら、言葉では
「自分が言い出したことだから。みんなのためだから」
と口にしながら作業を進めた。結局、全てが終わったのは午前4時前のこと。少しフラフラになりながら、シャワーも浴びずに私は布団の上に倒れこんだ。
翌日、目を覚まして時計を見る。
「うわっ、こ、こんな時間!」
なんと、時計は9時を回っている。あわてて顔を洗う。そういえば昨日はシャワーも浴びていないので、少し汗臭いかも。けれど、そんな時間はない。
少しでもマシになるかと思い、下着を着替えて、ちょっとだけ正装。そして急いで待ち合わせ場所へと走った。
羽賀さんと妻、そして息子と待ち合わせたのは、街中にある喫茶店。羽賀さんのお気に入りの場所らしい。
カラン、コロン、カラン、コロン、カラン
慌てて店の扉を開く。カウベルが激しく鳴り響く。
「お、おまたせしました。はぁ、はぁ、はぁ」
私は息を切らして、やっとのことで言葉を吐き出した。
あらためて顔をあげると、お店の真ん中の席に妻の紗弓、息子の太陽、そして羽賀さんがそこにいるのを目にした。みんな、驚いた顔をしている。
「濱田さん、大丈夫ですか? かなり走ってこられたようですが?」
「す、すいません。ちょっと寝坊をしてしまって」
羽賀さんの言葉に、私は言い訳をする。さらに、自分を慰めるかのように、言い訳の言葉が口から出てきた。
「昨日の夜、ずっと工場で作業していて。寝たのが朝の4時過ぎだったもので。とにかく今日のためにと思って、がんばって作業をしていました」
私の言葉に、紗弓は少し冷たい感じでこう答えた。
「あなたって、昔からそうだったわよね。自分で何でも責任を負って、そのためにまわりの人に迷惑をかけて。今日だって、二十分も遅刻して。遅くなるなら、電話の一本でもよこせば安心するのに」
「で、電話する時間もなくて。それに今、携帯電話も持っていないし」
「携帯電話じゃなくても、公衆電話でもいいじゃない。そういうところがまだ自分勝手なんだから」
早速紗弓を怒らせてしまった。その責任は私にある。
「まぁまぁ、濱田さんがそれだけ今の仕事を頑張っているってことなんですから。あ、マスター、シェリーブレンド追加でお願いします」
羽賀さんは私をかばってくれたのだろうが。やはりここは自分の責任。それを感じると、言葉数が少なくなってしまう。
「それよりも、太陽くんのことですが。ボクも先方との間に入って話をうかがったのですが。ちょっと別の問題がありそうですね」
「別の問題、というと?」
「それは私から説明します」
紗弓が羽賀さんの言葉を遮って、凛とした姿勢で私に向かった。
「太陽がケガをさせたという相手、ケガといっても、ちょっとひざをすりむいただけ。しかも、最初に手を出してきたのは、相手の方なんです」
「だったら、賠償金なんて言いがかりじゃないか」
「私もそう思いました。けれど、ケガのおかげで今度の空手大会に出られなくなった。すでに支払った県外への遠征費用がムダになった。これを償えと言ってきたんです。しかも、その遠征費用には両親の旅費、宿泊代、さらにはおじいちゃん、おばあちゃんの旅費まで含まれていて。合計二十万円だなんて……」
あれだけ強気だった紗弓が、ここで涙ぐみ始めた。
「さらに悪いことが重なりました。ボクが相手のことを調べたのですが。この相手、実は西谷工場長の甥っ子さんだそうです」
「えっ、西谷工場長!」
これはまずい。私が詐欺罪で捕まって刑務所に入っていたことを知っているのは、磯貝社長と西谷工場長の二人だけ。しかし、ここで私の息子が西谷工場長の甥っ子をケガさせたと知ると、私のことをダシにしてどんな言いがかりをつけられるかわからない。下手をすると、学校に妙な噂が流れかねない。
「じゃ、じゃぁ、どうすれば……羽賀さん、私はどうすればいいのですか?」
思わず羽賀さんにすがってしまった。ちょうどそのとき、喫茶店の女性店員がコーヒーを運んできた。
「濱田さん、まずは落ち着いて。このコーヒーを飲んでみてください」
落ち着いてって……コーヒーなんか飲んでいる場合じゃない。そう思ったが、羽賀さんはいつもの笑顔で私にそう語りかけるものだから、言葉通りの行動を起こした。
コーヒーを飲んだ時、ズドンっという衝撃が体の中を走った。その衝撃は大地へと響く。と同時に、天が割れ、青空が一気に広がる。そんな思いに駆られた。これは一体なんなんだ?
「濱田さん、今の悩みに対しての答えを、そのコーヒー、シェリー・ブレンドが教えてくれたはずです。どのような味がしましたか?」
「味って……味なんてもんじゃない。なんなんですか、これは?」
「何か特別なものを感じたようですね。ぜひ、今感じていることを教えていただけないでしょうか?」
「は、はぁ……」
悩みの答えをコーヒーが教えてくれる。意味がわからないけれど、今受けた感覚を言葉にしてみた。
「つまり、天と地、そこに答えがある。そういうことなのかな、とボクは感じました」
「天と地に答えがあるって、ますます意味がわかりません。どういうことなのですか?」
意味不明なまま、私は羽賀さんの答えを待つことになった。