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コーチ物語 クライアント20「日本の危機」 第四章 本当の心 その2

「大磯さん、今不安、ですか?」
 羽賀コーチの言葉で私は今の自分の気持をもう一度考えてみた。
 不安、確かにそれもある。が、それ以上に私の中から湧きでてくるもの。それは坂口さんに対しての期待感と信頼感である。彼以外にパートナーを組むことは考えられないし、彼がいてくれれば思ったとおり進みそうだという感じがする。
「羽賀さん、坂口さんをなんとか説得していただけないでしょうか?」
「うぅん、残念ながらそれはできません」
 スパッと羽賀さんに断られてしまった。自分で何とかしろ、ということなのだろう。でも、今私が動くとリンケージ・セキュリティ側の妨害工作が起こりそうだ。
「そうですか……」
 ちょっと落胆していると、羽賀コーチはにこりと笑って私にこう言った。
「坂口さんを説得することはできません。でも、坂口さんに納得していただくことならできるかも」
 えっ、どういうことだ? 私が驚いた顔をしていたのを見計らって、羽賀コーチはさらに言葉を続けた。
「大磯さん、あなたはこれからの活動は誰かに説得されて動いているのですか?」
「いえ、自分で決めて動いています」
「ではリンケージ・セキュリティの仕事は?」
「最初は自分の意志でしたが、疑問を持ち始めてからは動かされているという気持ちのほうが強いですね」
「ということは、会社に説得されて動いているってことですね」
「えぇ、そうなります」
「それと同じことを坂口さんにも強要しようというのですか?」
「いえ、けっしてそんなことは。あ、だから説得はできないけれど納得してもらうことならできる、と言ったのですか?」
「はい、その通りです。私はコーチングのコーチです。コーチングは自分で答えを出してもらいます。決して周りからの指示や命令で相手を強制して動かすものではありません」
 このときほど羽賀コーチの信頼感が高まったことはない。私の期待以上の答えを用意してくれている。さすがだ。
「わかりました。ぜひ坂口さんに納得してもらえるようご協力をお願いいたします」
 私は深々と頭を下げてお願いをした。
「ところで大磯さん、今回の計画に対してまず何から始めますか?」
 坂口さんが私のところに来てくれるのなら百人力。私の頭の中にはさまざまな計画が渦巻いていたが、その後の羽賀コーチのコーチングで一つ一つ整理され、まず行うべき行動が明確になった。
 大きくは二つ。会社に辞表を出して会社をやめること。幸い私は独り身なのでここは自分の意志で動ける。もう一つは新しい会社をつくる準備を始めること。これについては知り合いに司法書士がいるので、そこに相談することになった。
 それから三日後のこと。羽賀コーチから電話があり羽賀コーチの事務所でお会いする約束をした。
「大磯さん、まずは一つお詫びをしないといけません」
 その言葉で、坂口さんを納得させられなかったのだと感じた。
「やはり、無理でしたか……」
「あ、いえ、そうではないんです。私は大磯さんに無断で、坂口さんに大磯さんのことを話してしまいました」
「えっ、どういうことですか?」
「私たちコーチには守秘義務というのがあります。これはクライアントの許可なしにクライアントから得た情報を他人に話してはいけないというものです」
「はぁ」
「実は先日、私は坂口さんとお会いしてきました。そこで坂口さんも不安を抱えていることがわかりました。これは本人の了承を得ているのでお話ししますが、実は坂口さんも大磯さんと同じように、私のコーチングを受けていました」
「えっ、そうだったんですか!?」
「はい、だから今回は折を見て坂口さんに例の件をお伺いしようかと思ったのですが。その機会が思いの外早くなってしまい大磯さんの許可なしに、大磯さんのことをお話ししてしまいました」
 羽賀コーチは深々とお詫びをしている。なんて誠実な人なんだ。坂口さんを納得させて欲しいとお願いしたのはこちらなのに。
「羽賀コーチ、顔をあげてください。そのくらいだったら特に問題ありませんよ。それよりも坂口さんはどんな反応を?」
 先程まで神妙な顔つきだった羽賀コーチ、私の言葉で急にニッコリ顔に変わった。私はその顔で悟ることができた。
「そうですか、坂口さんは納得してくれましたか」
「はい、これから忙しくなりますよ。まずは坂口さんに会いに行きましょう」
「はい、もちろんです」
 私の顔に笑顔が出ているのが自分でも感じ取れた。だが、この笑顔がその直後大きく反転させられることになるとは。
 胸の中にしまっておいた携帯電話のバイブが鳴り出した。
「あ、ちょっと失礼」
 そこには会社の名前が出ている。なんだろう? とりあえず出てみる。
「はい、大磯です」
「大磯くん、いよいよ裏切りに入るのだね」
 その声はゆっくりと、そして重く私にのしかかってきた。
「えっ、だ、誰なんですか?」
「私の声を聞き忘れるとは。やはり君はもう私のことなど頭にないのだね」
 そう言われて、頭の中は声の主を探すことでいっぱいになった。会社の人間で、しかも私にこのような言葉を吐ける人間。そしてあの威圧的で重たい声。ま、まさか……
「しゃ、社長!?」
「ふふふっ、ようやくわかったかね」
 声の主はリンケージ・セキュリティの社長、佐伯孝蔵である。彼とは直接話したことはない。が、その威圧的で重たい声は社の連中を支配するときに心に残る声であったことを思い出した。
「ど、どうして?」
「大磯くん、君には大いに期待をしていたんだけどな。今まで我社のセキュリティ部門ではリンケージテクノロジーの坂口くんと組んで、数々の活躍をしてくれていたのに。とうとう雇い主に牙を向くようになったのか。まさに飼い犬に手を噛まれるとはこのことだよ」
 私は何も言葉が出てこない。まさに蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。
「大磯さん、大磯さんっ」
 羽賀さんが私を揺さぶってくれたおかげで、意識を戻すことができた。
「ほう、そういえば君は今、コーチングの羽賀純一のところにいるのだったね」
 そんなことまで筒抜けだったのか。リンケージ・セキュリティの情報網の深さにはあらためて驚かされる。と同時に恐怖を感じてしまう。
「大磯くん、君に二つの選択肢をあげよう。もう一度会社に戻って、今までの仕事を続けること。ただし、仕事内容に関しては君に選択肢はないがね。もう一つは、私に牙を向いたまま、だれに知られるわけでもなくひっそりと消えていく。消えていく、というのはあえてどんなことなのかは言わないがね。さぁ、どちらを選択するかな?」
 私は何も考えられなくなった。恐怖というものがなんなのか、このとき初めてわかった気がする。
 このとき、私が一人でいたのなら佐伯孝蔵に屈していたに違いない。だが顔を上げるとそこには心強い人が目に入る。羽賀コーチだ。
「そ、そんな脅しにはのりません。私は私の意志で行動します」
 そう言うのが精一杯だった。私のささやかな反抗である。
「はぁっはっはっ。大磯くん、君もなかなか言うじゃないか。いやぁ愉快だ。それでは君の思うように動くといい。まぁ、君は幸いにして家族がいないようだから、ひっそりと消えてしまっても誰にも迷惑はかからないだろうがね。大変なのは君に巻き込まれた坂口くんだろうなぁ。彼には奥さんも子どももいるからねぇ」
 そ、そんな……私の選択によって、坂口さんのところを犠牲にしてしまうなんて。どうすればいいのだ?
 私は再び羽賀コーチの方を見た。私の不安な表情がわかったのだろう。羽賀コーチはしっかりと私を見て、ゆっくりと首を縦に振った。
 大丈夫、安心しなさい。羽賀コーチからはそんな声にならない言葉が伝わってきた。
 今の私はひとりじゃない。信頼できる人がいる。この存在はとても心強い。
「私は私の意志で行動します。失礼します」
 そう言って私は電話を切った。その途端、私は全身の力が抜けてソファに倒れこんでしまった。
「大磯さん、大丈夫ですか?」
 羽賀さんの声は聞こえるが、私は何もしゃべることができなかった。ただ、手で大丈夫のジェスチャーをするのが精一杯。しかし、実のところ大丈夫ではないのだが。
 またまた不安をいっぱい抱えることになるのか。本当にこの決断でよかったのだろうか。そんな思いだけが胸の中でグルグルと渦を巻いている。

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