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コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」7.子女名優 前編

「来週から一緒に暮らすことになりました。今までありがとうございます」
「そうか、やはり夫婦一緒が一番だからな。これからもがんばって」
 妻の紗弓と会った日の夜、私は社長と社員寮の寮長である社長の奥さんに、紗弓と復縁することを報告した。
「住むところは近くなの?」
「はい、自転車で通える距離なのでなんとかなりそうです。でも、一つだけ心配なことがあって……」
 心配事、それは息子の太陽のこと。
 太陽がお友達ともめて、ケガをさせてしまった事件。ケガをさせたことで、空手の大会に出られなくなった。それに対しての遠征費用を賠償して欲しいという申し出について。
 前に紗弓と羽賀さんと会った時には、こちらの心の持ち方を変えることで、問題が解決する。そういう結論を出した。
 相手は西谷工場長の甥っ子だという。これが幸いした。
 最初は、このことで西谷工場長から責められるのではないかと思ったが、逆に西谷工場長が相手側、西谷工場長の妹さんに対して「それはおかしいぞ」と諌めたらしい。
 そのおかげで、賠償金については払わなくてよくなった。だが、まだ人間関係は悪化したままだという。
「こどものやったことだから、では済まされない問題だと思って……」
 事の次第を社長にも話した。
「なるほど、確かにちょっと困ったことだなぁ。下手に親が出て行くと、大事になりかねないし。今回は西谷くんがうまいこと言ってくれたようだが、相手も濱田さん一家に対してはいいようには思わないだろうからなぁ」
「はい。だからといって引っ越すというのも違うような気がして。どうしたらいいでしょうか?」
 これについては、社長も奥さんも腕組みをして「うーん」とうなるだけ。良い案は出てこない。
「まぁ、しばらく生活をしてみて、何かあればまた教えてくれ。及ばずながら力にはなるから」
「社長、ありがとうございます」
 とりあえず話したいことは話した。とにかく来週の日曜日、引っ越しだ。引っ越しといっても、私の荷物はスーツケース一つに収まる程度しかない。ちょっとした着るものと、身の回りの洗面用具ぐらいだ。家電品は寮の備え付けのものだし、本当なら明日にでも出ていける。
 が、やはりある程度のけじめと区切りをつけるために、引っ越すのは次の日曜日にした。
 こうして一週間ほど仕事をして、いよいよ日曜日。引っ越しの日となった。
「短い期間でしたが、今までありがとうございます」
 この日の朝、スーツケース一つで寮の玄関に出る。寮には独身の連中が五人ほどいて、みんな私を見送ってくれた。社長と奥さんも一緒だ。
「まぁ、これで今生のお別れってわけじゃないんだし。今度は奥さんとお子さん連れて遊びに来てくださいね」
 奥さんからの言葉は社交辞令かも知れないが、それでもうれしい。
「かぁ〜っ、いいなぁ。やっぱ家族で暮らすってうらやましいっすね」
 まだ若い工員の一人が、私をうらやましそうに見る。
「大丈夫。君もそのうち家族を持てるようになるよ。じゃぁ、行きますね。本当にありがとうございます」
 こうして私は再び家族と住むことに。本来ならタクシーで移動したいところだが、ここは節約。バスを乗り継いで、紗弓と太陽が待つアパートへと移動した。
 私が捕まってから、紗弓はさすがに元いたアパートには住みづらくなり、また家賃を下げないといけないこともあり、公営住宅へと引っ越しをしていた。
「さぁ、これからスタートだ!」
 公営住宅の前で、私は空を見上げた。よし、これから再び家族としてやり直すぞ。そう決意をして階段を登った。
 住宅は四階建てで、紗弓は三階に住んでいる。
ピンポーン
 呼び鈴を鳴らす。鍵がガチャリと音を立てる。そして扉が開く。
「あなた、おかえりなさい」
 にこやかな紗弓の顔が、と言いたいところだったが、なぜか表情がくもっている。どうしたのだろうか?
「ただいま」
 私はできるかぎりの笑顔で応えた。だが、紗弓は私のことを喜んで迎え入れるのではなく、困った表情を浮かべるばかり。
「紗弓、何かあったのか?」
 さすがに私も不思議になり、そう尋ねた。すると、紗弓の目線は、テレビを見ている太陽へと向けられた。
「太陽、この一週間学校に行っていないの」
「えっ、ど、どうして?」
 まさか、一緒に住み始めて最初の会話がこれだとは予想もしなかった。
「あの、ケガをさせてしまったお友達からいじめられているらしいの。太陽は何も言わないけれど、同じ棟に住む同級生のお母さんから、そんなことを耳にして」
「そうか……まさか、そんな事態になっているとはな。しかし困ったな。今回のことは相手が一方的にわるいわけじゃないし。空手大会に出られなかったことに対しては、うちにも責任があるわけだし。それに……」
「工場長さんを使っちゃったことよね。兄妹間とはいえ、ある意味権力を使ったことになっちゃったからなぁ。素直にお金で解決しておけばよかったのかなぁ」
 難しい問題だ。太陽はもともと名前の通り、明るい性格をしていた。周りを笑わせるような、ひょうきんな面も持っていた。だが、今の太陽にはそのかけらすら見られない。
「そういえば、この一年間太陽はどんな感じだったんだ?」
「うん、それがね……」
 紗弓が言うには、引っ越しで転校してから太陽の性格は変わってしまったらしい。今まで明るくて、何でも話をしてくれていたのだが。徐々に性格が暗くなってしまい、会話も少なくなったとか。
 また、前の学校では放課後に友達とよく遊んでいたのだが。ここに引っ越してからは、学校から帰るとすぐに家に引きこもっていたらしい。
「どうしてこんなに変わっちゃったのかしら。あなたと一度別れてから、私の育て方が間違っていたのかなぁ」
「でも、紗弓も自分の仕事で一生懸命だったんだろう。そういえば、仕事は前のを続けているのか?」
「うん。一年前にパートから正社員になった。といっても、給料はそんなには変わらないけれど」
 紗弓は保険の仕事をしている。といっても、外回りの営業ではなく、事務の仕事。営業マンのバックアップのようなことをやっている。
 ここの社長さん、まだ若いけれど考え方がしっかりしていて。ありがたいことに我が家の事情もわかってくれて。いろいろと力になってくれているとか。
「仕事も五時にはあがらせてくれるから、今までは太陽を一人にする時間がそんなになかったけれど。この一週間はホント困ったわ。結局、外に出ないようにって言って、仕事に出ていくしかなかったし」
「そうか。紗弓の気持ちにも負担がかかっていたんだな。さて、どうしたものか……」
 こんなとき、ふと頭に思い描くのはあの人の顔。やはり、頼ってみたほうがいいのかな。
「ねぇ、このこと、羽賀さんに相談できないかしら?」
「やはり紗弓もそう思ったか。今、私も羽賀さんの顔が浮かんだところだったんだ。けれど、迷惑じゃないかな」
「そうよね。私たちのことでも、羽賀さんに負担かけちゃったし」
 そう思った矢先、紗弓の携帯電話が鳴った。
「はい、はい、そうですけど。あ、羽賀さん!?」
 紗弓の声のトーンが二つくらい上がった。さすがに今話していたところに電話がかかってきたので、驚いたようだ。
「はい。替わりますね。あなた、羽賀さん」
「あ、濱田です」
「よかった。もうご家庭に戻られていたんですね。先週のお話だと、今日だと伺っていたので。よかったら、ご家族がそろったお祝いをさせていただけないかと思って。ご迷惑でなければ、これからうかがってもよろしいでしょうか? ケーキ、買ったんですよ」
 そう言われるとさすがに断れない。いや、断れないどころか、今なら大歓迎だ。もちろんオーケーを出して、羽賀さんを出迎えることになった。

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