コーチ物語 クライアント16「落日のあとに」その1
<作者より>
今回のシリーズは、再編集をして読み直したときに、思わず涙してしまった。そんな作品です。その8まであるのでぜひ続けてお読み下さい
「はい、そうなんですか。ありがとうございます」
私は深々とお礼をしてその部屋を出て行った。消毒臭い、あまり長くはいたくないその部屋を出ると、目の前には白衣を着た男女がなにやら話をしていた。
もう何度この病院に足を運んだだろう。それもあと僅かであることを今日先生から告げられたのだ。これは喜んでいいことなのか、それとも落胆すべきことなのか、今の私にはよくわからない。
先生の部屋を出ると、いつものように階段を上る。この階段は初老の私にはちょっと荷が重い。若い頃、もう少し運動をしておくんだった。仕事ばかりで何一つやっていなかったからな。今頃になってそのツケがくるとは。
だからというわけではないが、この病院にくると必ず階段を使うようにしている。少しは運動不足が解消できればと思ったのだが、これが逆に私の体を悪い方向へともっていっているような気がする。
三階まで上ると、目の前にはナースステーションがある。いつも見る看護師たちが私に軽く会釈をする。私も会釈でそれに応える。看護師たちは私の応えを見ると、そそくさと仕事にとりかかった。
ナースステーションの先に私の行くべきところがある。一番奥の部屋、そこが目的地。その部屋に入ると六つのベッドが並んでいる。その一番奥の窓際のベッド。そこが私の目指す場所。
そのベッドにはひとりの女性が上半身を起こしてぼんやりと窓の外を眺めている。腕には点滴がついている。
その女性の頭の色はすっかりと落ち、肌の色もかなりくすんでいる。だが、丸みを帯びたその体からは、女性特有の香りが漂っている。こんなになっても、まだ女でいるのだな。それを感じずにはいられなかった。
「しずえ、今日の調子はどうだい?」
しずえ、と私が呼んだ女性。彼女は私の妻。いや、正確には妻とは呼べない。そんな関係である。
私としずえが出会ったのは十年前。彼女は離婚をして、女手ひとつで子どもを三人育ててきた。私と出会った頃は、一番上の子はもう就職しており、一番下の子は高校受験を控えていたときだったと記憶している。
私の方はというと、まだ妻と子どもと一緒に暮らしていた。だが、この時には家族の関係というのは実際にはないのと同じ状況。仕事一筋で生きてきた私を妻はすでに見限っていた。早くに結婚し、子ども二人も成人して家を出て行った状況。そんな中、妻は自分で仕事を見つけ、それに没頭していた。
そんなとき、ふと立ち寄った小料理屋でしずえと出会った。しずえは友達と来ていたのだが、なぜか私と意気投合。男女の仲になるにはそんなに時間がかからなかった。
私にとっては初めての体験。だがそこに堕ちてしまってはダメだ。そう思いながらも感情の方が先に立ち、結果として妻に離婚を申し立てた。
妻は何も言わずに判を押してくれた。判を押してから聞いたことだが、妻は離婚届をバッグに入れ、いつ話を持ちかけようかとタイミングを見計らっていたとのことだった。
そして私はしずえと一緒になった。だが結婚はしていない。一緒には住んでいたが、内縁の関係をずっと続けてきた。
「おや、誰か来ていたのかい?」
テーブルには湯のみが二つ、そしてコップが一つ置いてある。湯のみのひとつはしずえのもの。もうひとつは来客用に用意しておいたもの。そこには口紅の後が残っている。そしてコップにはわずかではあるがオレンジジュースが残っていた。
「実咲ちゃんが来たんだね。雄大くんを連れてきたのか」
「そうねぇ。誰か来たようなきがするわね。うふふ」
実咲ちゃんとはしずえの末娘。三年前に結婚し、二歳の子どもがいる。その子どもが雄大くんだ。今はちょっと離れたところに住んでいるため、毎日は病院には来られない。ときどき連絡もなしに現れているが、明らかに私を避けているところがある。
無理もない。ある日突然現れた男と母親が一緒になるなんて、年頃の娘だったら許せないことだろう。
「そうそう、あきらが来てたのよ。おかあさん、おかあさんって。まだまだ子どもだわね」
「そうか、あきらくんが来ていたのか」
実際に来たのは雄大くん。でも今のしずえの中ではあきらくんが来ていたことになっている。
あきらくんとは彼女の長男。そして二年前、事故で命を失っている。それがきっかけとなったのだろう。しずえは徐々に今のようになってしまった。
若年性のアルツハイマー病である。
かろうじて私のことはわかっているようだ。が、美咲ちゃんの子どもである雄大くんについては、ちゃんとした認識がなされていないようだ。いつも雄大くんのことを長男のあきらくんと呼んでいる。
しかし、しずえはこのアルツハイマー病が原因でここにいるのではない。末期ガンである。
これもわかったのは一年半程前。記憶に異常が見られ始めた頃、体にも異常を訴え始めた。だがそれが本当のことなのか分からない状況が続き、検査に行かせるまでに時間がかかってしまった。これは私のミスだ。
その結果、ガンが進行していることがわかった。
今まで二度ほど手術を受けたが、残念ながら転移のスピードの方が早く、もうほとんど手のつけようがない状況になっている。
そして今日、医者から言われた。もってあと一ヶ月だろう、と。
だが私は悲観はしていない。むしろしずえにとっては幸せなのかもしれない。自分が明日死ぬかも知れない。そんな恐怖に怯えることなく逝くことができる
のだから。
そんなしずえを私は微笑みながらみつめた。この先、私に何が出来るのだろうか。私には今のしずえを見つめるしかできない。寂しくないようにそばにいてあげることしかできない。
ひょっとしたらアルツハイマーが進行して、私のことも忘れる時がくるかもしれない。でもそれでもいい。しずえが私を必要としてくれれば、それでいい。
気がつけば日もだいぶ落ち始めた。
「じゃぁ、また明日来るからな。今夜もゆっくりと寝るんだよ」
そう言って私はしずえの唇に軽いキスをした。しずえはうふふと笑うだけで何も言わなかった。
帰り道、ちょっとした事件が起きた。私が病院を出て角を曲がろうとしたときのことである。
「あっ、ごめんなさい」
危うく自転車とぶつかりそうになった。こちらも考え事をしながら歩いていたため、普通なら避けられるところだったのだが。おかげでしりもちをついてしまった。
「大丈夫ですか?」
顔をあげると、そこには若い女の子が私に手を差し伸べていた。その横には背の高い男性が自転車と一緒に立っていた。
「ごめんなさい。こちらの不注意で。大丈夫ですか?」
今度は男性の方が私を抱えてくれた。
「いえいえ、こちらこそ不注意でした。大丈夫ですよ」
そう言って立ち上がろうとしたとき、右足首に違和感を感じた。そっと足をつこうとすると
「いたっ!」
鋭い痛みが走った。どうやら転んだ拍子に足首をひねったらしい。
「こりゃやばい。ミク、ちょうどそこが病院だから急いで連絡をしてきてくれ」
「わかった」
女の子は急いで病院に駆け込んだ。
「大丈夫ですか。とりあえず医者が来るまで待ちましょう。本当にすいません。どなたかご家族に連絡をしないと」
「あ、大丈夫ですよ。私は今独り身で暮らしていますから。心配なく。あたたたっ」
痛む足首をさすりながら、私は医者の到着を待った。
「こっちです。急いで!」
先程の女の子が白衣の男性を連れてきた。その顔はさっき会ったばかりの男性。しずえの主治医であった。
「神島さんでしたか。大丈夫ですか?」
「ちょっと足首をひねったみたいで」
「こりゃいかんな。ねんざをしている。少し待ってください。タンカを持ってこさせますから」
そう言って主治医はまた病院へ。ちょっとことが大きくなってしまった。
女の子と背の高い男性は私のことをひたすら心配してくれる。ここまでやってもらうと、相手に対して腹がたつどころか感謝の気持ちさえ出てくる。
タンカも到着し、私は診察室へと運ばれた。念のためレントゲンを撮ってもらったが、幸い骨折はなかった。湿布を貼ってもらったものの、まだうまく歩けない。
「神島さん、今日は時間も遅いですし、安静のために一晩だけ入院しませんか。明日になればだいぶ動けるようになるでしょうし」
医者のその言葉に従うことにしよう。そのことをあの二人にも伝えたところ
「じゃぁ、私たちもできるだけお手伝いさせていただきます。何か必要なものはありますか?」
「そうですね、強いて言えばそろそろお腹が空いてきましたか」
私の提案に二人は笑ってこう答えてくれた。
「よし、じゃぁ何か買ってきましょう。私たちもお腹空きましたしね。ご一緒に食べさせてもらってもよろしいですか?」
「えぇ、一人よりも賑やかな方がいいですしね」
なんとなく安心できる人たちだな。私はそう思った。
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