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コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」19.人生王道 前編
「太陽、何言ってるの。今よりも広くて住みやすいお家に引っ越すんだよ」
紗弓が太陽をなだめる、というよりも言い聞かせるような口調でそう伝える。私も同じ思いだ。子どものわがままで、折角のチャンスを逃すなんてできるわけがない。
けれど、太陽はムッとした顔を崩さず、私達をにらみつけながらこんなことをいい始めた。
「だって、せっかくお友達増えたんだよ。雄大くん、すごくボクにやさしいし。クラスのみんなとも、やっと仲良くできたのに。だからボク、引っ越しなんかしたくない!」
この言葉は衝撃的だった。私達大人が考えている幸せと、子どもが感じている幸せ、これには差があるのだ。いい暮らしができて、お金がそれなりにあれば幸せな暮らしができる。まだまだそういう価値観が抜けていないことに気付かされた。
「わかった、太陽の気持ちのほうが大切だ。せっかく今の暮らしに慣れて、太陽も元気に学校に行っているんだから。何もこの暮らしを壊す必要はない。違うか?」
「あなた……」
紗弓は涙ぐんで私に寄り添ってきた。どうやら紗弓も同じ思いらしい。
「横山社長、せっかくの申し出なのですが、今のような事情ですので。子どもの気持ちを優先させたいと思います。なので、今回の件についてはお断りさせていただいてよろしいでしょうか」
横山社長は、何かを言いそうになった。が、それをぐっとこらえているようだ。きっと、私達の考えに反対なんだろうな。せっかくマンションの買い手がつくと思ったのだから。
「濱田さん、横山社長、ちょっと視点を変えて考えてみませんか?」
「視点を変える? どういうこと?」
横山社長、不思議そうな目で羽賀さんを見つめる。私も同じだ。何か妙案でもあるのかな?
「今は濱田さんが横山社長のマンションを購入するかどうか、それだけに意識が向いているような感じがします。けれど、他にも解決策がないか、これを今からみんなで探ってみるのはどうかと思いまして」
「他の解決策って、どんなのがあるの?」
横山社長、ちょっといらついた表情を浮かべながら羽賀さんに食って掛かる。自分の考えを否定された、という気がしたのだろう。
「まず、お互いの思いに対してのメリット、これを出し合いましょう。まずは横山社長からお願いします」
羽賀さん、いつの間にか紙とペンを取り出して、記録の準備を始めていた。この早業には驚いた。
「そうね、まずはマンションの買い手がつくってことだから、入金予定が明確になる。だから安心感は高回るわよね」
「なるほど、入金予定が明確になって安心できる、ですね。他には?」
この調子で、羽賀さんは横山社長が思っているメリットを五項目ほど抜き出した。
「では次に濱田さんがこの家に残るメリット、これを出しましょう。お願いします」
「やはり、太陽が安心して生活できる。これが一番です」
「なるほど、太陽くんが安心して生活できる、ですね。他には?」
横山社長のときと同じように意見を出していく、途中、紗弓も意見を出したので、私の方は七項目となった。
「では次に、お互いの思いを通すことによって生じるデメリット。これを出し合いましょう。これについては、どちらの立場でも結構です。思いつくものからお願いします。あ、北川さんもぜひ意見を出して下さい」
「じゃぁ、俺が感じていることを言っていいかな。まず横山社長の方だけど……」
こういって北川さんが口火を切った。北川さんの意見は、お互いのメリットをひっくり返したようなものばかり。たとえば、太陽が引っ越しで不安になる。横山社長の入金のめどが立たなくなる、など。当たり前といえば当たり前だが、こちらのメリットは相手のデメリットになるのは明らかだ。
「他に何か思いつくものはないですか?」
しばらく紙にかかれているものを見つめる。すると、太陽が「はいっ!」と元気よく手を上げた。
「では太陽くん、どんなことを思いついたかな?」
「はい。このままだとお父さんと社長さん、ふたりともケンカをしてしまいます」
この意見には驚いた。確かに、このままお互いに自分たちの主張ばかりを言い合っていたら、ケンカになってしまう。というか、太陽の目にはすでに私達がケンカをしているように見えているのかもしれない。
「そうだね。このままだとお父さんも社長さんも、意地になってケンカになっちゃうかもしれないね」
羽賀さんはそう言って、太陽の意見を両方に書き記した。これは大きなデメリットだ。今後、気持ちよく仕事をやっていくためには、こんなところで小競り合いをしていてはダメだ。
「そうね、私もちょっと意地になりすぎてたわ。濱田さん、ごめんなさい。私のわがままが過ぎちゃったわね」
「いえいえ、とんでもない。私こそ、せっかくのいい話を断るだなんて。こちらこそわがままですよ」
「あの……ちょっといいですか?」
北川さんが口を挟んできた。なんだろう?
「羽賀さんが書いていたものを見ていて思いついたんですけど。社長のマンションって、住居じゃないといけないんですか?」
「えっ、それどういうこと?」
「つまり、仕事場として使えないのかなって思って。今のところでも申し分ないんですけど、ここだったら俺も近くなるし。それに部屋数が多いから、万が一徹夜作業になっても、仮眠とか寝泊まりもできるし。それだったら俺も家賃を折半できるから、費用負担も軽くなるし」
「そっか、そんな手があったんだ。灯台下暗し、どうして気づかなかったんだろう。オーナーさえしっかりしていれば、事務所ユースとしても使って問題ないわよ。これだったら、お互いの問題点は全部クリアできるし、メリットも全部満足できるじゃない」
なるほど、そんな手があったか。これで丸く収まりそうだ。
「北川さん、ナイスアイデアです。というか、お二人からこれが出てこなければ、私から提案しようかと思っていたところでした」
話が丸く収まった。私たちはこのアパートに住み続ける。そして仕事場として横山社長のマンションを買い取る。費用は北川さんと折半。そしてもう一つ、紗弓からこんな提案が飛び出した。
「あのさ、せっかくだから前から言おうと思っていたことがあるんだけど。いいかな?」
「なんだい、どんなこと?」
「あのね、私、今の会社辞めようと思ってるの」
「ど、どうして?」
「仕事に不満があるわけじゃないの。でも、もっとやってみたいことができちゃって」
「やってみたいことって?」
「あなたのお手伝いをしたいの。今、あなたと北川さんの仕事って、横山社長の会社の一部門として取り組んでいるでしょ。この仕事を独立した会社にして、横山社長のところとの提携事業にしたらどうかって思って。そのかわり、事務とか経理とかの仕事が増えるじゃない。それを私がやろうかなって思って」
「紗弓……そんなことまで考えていたのか?」
「うん。せっかくだから、私も何かやってみたい。あなたを見ていてそう思ったの。横山社長、この案どうですか?」
紗弓は横山社長をじっと見つめる。すると、横山社長からまさかの言葉が飛び出した。