コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」16.信成万事 前編
あの日から、私と北川さんの仕事への向かい方が変わった。元を忘れず、末を乱さず。本来私達がやろうとしていた意味、目的、これを常に忘れないように心がけた。
「濱田さん、どうせなら二人で共通のスローガンを掲げてみようよ。
北川さんの提案で、私達二人の共通する目的をスローガンとして決め、それを事務所に大きく貼り付けることにした。
私達が決めたスローガンの言葉はこれ。
「みんなの仕事を楽にする。それが私達の喜びとなる」
簡単な言葉だけれど、そうなることを信じて工場の改善アイデアを出し、それを形にしていく。あれ以来、試作品も順調に仕上がり、実際に使ってもらった工場からのアンケート結果をもとに、さらに改良を加える。
そうしてようやく一つの特許製品ができあがった。
「やっとここまできましたね」
「あぁ、これも濱田さん仕事に対する姿勢を思い出させてくれたおかげですよ。本当にありがとう」
「いえ、私一人じゃ何もできません。北川さんがこうやって具体的な形にしてくれたからこそ、この商品ができあがったんです」
目の前にある特許申請用の資料。これが私達の最終的な納品の姿である。これが利益を生み出し、そこから私達への報酬が支払われる。なんだか夢の様な話だ。
「でも、すぐにお金になるわけじゃないんだよなぁ」
そうなんだ。横山さんの話では、特許庁に出願した時点でまず間違いなく他は真似できないものとなるので、大きく売り出すことはできる。あとはこのアイデアを買ってくれる会社がどれだけいるかだ。そこは横山さんの会社に任せるしかない。
「でも、不安だよなぁ。モニターになってくれた工場の評判はいいけど、他の工場でもウケるのかなぁ」
北川さんの言葉に、ちょっと不安になる私がいる。確かに、この商品は作業効率を向上させ、コストダウンに繋がるのは間違いない。けれど、このアイデアを買ってくれるところは本当にいるのだろうか。
不安を抱えたままではあるが、次のアイデアを形にする仕事にとりかかる。だが、これが良くなかった。
「濱田さん、これ、工場からクレーム来てるよ」
「えっ、ど、どういうことですか?」
先日、試作品を使ってもらった工場から、クレームが来ているというのだ。どういうことなのだろうか?
「早速言われたとおりセットして使ってみたところ、確かに作業のスピードはアップしたけれど、人がそれに対応できずに、結果的に不良品の数が増えてしまったっていうんだよ」
そんなはずはない。いくら作業スピードが早くなったからといって、人が対応できなくなるなんて。
ともあれ、現場に直行することに。その現場は、私が以前勤めていたところ。そこに向かうと、待っていたのは西谷工場長だった。
「濱田さん、ちょっとこれはあかんわ。使い物にならん」
開口一番、この言葉はちょっとキツイ。
「現場を見せてもらえますか?」
今回開発した治具は、部品を押さえるときに今まで一つ一つ、手動でセットしていたところを、ボタン一つで全ての押さえをセットできるというもの。どうしてこれで作業が追いつかなくなるのだろうか?
「ほな、やってみせるで」
西谷工場長が作業をやってみせる。部品をセットして、両手でボタンを押す。両手で押すのはポカよけ。ボタンが一つだと誤作動を起こすこともある。そのために確実に作業をする意思を反映させるために、両手で押すようになっている。
カチャリ、と音がして部品を押さえる。そしてネジ止めをする。ここまでは順調。だが、次の瞬間、予想しなかったことが起きてしまった。
「あっ!」
叫んだ瞬間、部品が宙を舞ってしまった。なんと、セットした抑えを外す瞬間、一部の抑えが外れるタイミングが悪く、結果的に部品がバランスを崩して飛んでいってしまうという事態に陥った。
「そ、そんな……」
「最初はよかったんやわ。でもな、十回に三回くらいこうなってしまうようになったんやわ。おかげで宙を舞った部品で、落下したもんは使いもんにならん。濱田さん、はよなんとかしてくれや」
さすがにこれは私もショックだった。けれど、何が悪いのだろうか? 作動させているプログラムのミスなのか、それとも制御基板の問題なのか。ひとまずセットした治具はとりはずして、もとに戻して作業を行ってもらうことになった。
はずした部品を持ち帰り、再度検証をする。だが、事務所で作動させてみると、工場で見たような動作は再現しない。おかしい、一体どこに問題があるのだろうか? いくらにらめっこしても、解決案は出てこない。
「濱田さん、コーヒー」
北川さんがコーヒーをついでくれる。
「一息入れようよ。それに、ここで再現しないのなら工場でのセッティングに問題があるってことじゃないかな?」
そうとしか考えられない。明日、頼んで時間外にもう一度現場で検証をさせてもらうことにしよう。結局、この日帰り着いたのは夜十一時を過ぎた時間だった。
翌日、早速工場へお願いをするために足を運んだ。
「そやな、今日は残業が入っとるから、午後九時以降ならライン使ってええで。濱田さん、今度はしっかりと頼んますわ」
西谷工場長からも期待をかけてくれる言葉を頂いた。工場の応接室を出ると、なんと羽賀さんとばったりと出会った。
「あ、今日は工場の指導の日なんですね」
「はい。濱田さん、ようやく特許商品第一号ができたそうですね。おめでとうございます」
「は、はぁ、ありがとうございます」
「あれ、今ひとつ浮かない顔してますね。何かあったんですか?」
「いえ、実は……」
立ち話ではあるが、羽賀さんに今回の出来事を伝えてみた。ついでに、特許商品第一号が本当に市場に受け入れてくれるのか、不安であることも告げてみた。
「なるほど、そういうことですか。信成万事、ですね」
「信成万事? なんですか、それ?」
「信ずれば成り、憂えれば崩れる、ということです。つまり、信じていれば何事もうまくいくようになる。けれど、不安や怖れなど憂いの気持ちを持つと、それは崩れてしまいうまくいかなくなる、ということです」
不安や怖れを持つとうまくいかなくなる。まさに、今の私の状態そのものじゃないか。
「こんな言葉もあります。信ずるということは、事実がそうであるから信じるのではない。本当に信ずれば、必ずそうなるのである、と」
信じること。今の私に欠けているのはそれなのか。けれど、不安を拭い去ることはそう簡単にはできない。
「羽賀さん、言葉の意味はわかるのですが……どうやったら憂いをなくすことができるのでしょうか?」
私は羽賀さんの目を見て、この答えとなる言葉を待った。