コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」9.明朗愛和 前編
「紗弓、今日は気分はどうだい?」
「うん、いい感じ」
仕事が終わってから、私は毎日紗弓が入院する病院へと足を運ぶ。紗弓はクモ膜下出血の一歩手前で、一大事には至らずに済んだ。医者に言わせると、こんなケースは珍しいという。
今のところ命には別状はないが、万が一のことも考えて二週間ほど入院をすることに。それにしても、私と一緒に暮らし始めてからこうなったとは。どうやらストレスが原因らしいが。
「太陽はちゃんとしてる?」
「うん、ありがたいことに食事はお向かいさんが面倒を見てくれるから助かってる。いつまでも甘えてちゃいけないけれど、私じゃろくなご飯つくれないからね」
「ホント、こんなことになるならあなたに料理をちゃんと教えておくんだったな」
笑いながらそう言う紗弓。だが、以前のような明るさはそこにはない。やはり自分の身体に不安があるのだろう。
「じゃぁ、また明日来るから。明日は土曜日だから、太陽も連れてくるよ」
「うん、ありがとう」
そう言って私は病室を出た。自転車を漕ぎながらの帰り道、私は考えた。羽賀さんから教えてもらった疾病信号、悪いものを抱えれば悪い症状が出る。逆に良いものを抱えれば症状は良くなる。今私ができることは、できるだけ良いことを考え、笑顔でいることだ。私が不安になれば、紗弓も不安になってしまうだろう。
「ただいま」
夜七時過ぎに家に戻る。食卓にはお向かいさんが用意してくれた食事が並んでいる。
「おぉ、今日もごちそうだな。ありがたい。太陽、ご飯にするぞ」
「はぁい」
太陽の声は心なしか暗い。それは当然だろう。母親が突然、入院して目の前からいなくなったのだから。小学三年生の太陽にとっては、辛い出来事に違いない。
「太陽、明日はお母さんの病院に一緒にいくぞ」
そう言ったとき、太陽の顔が輝いた。やはり母親に会うのが待ち遠しかったようだ。
翌日、家を出る前にお向かいさんに報告とお礼を伝えに行く。
「奥さん、具合はどうなの?」
「おかげさまで、だいぶいいみたいです。あと一週間ほど入院になりますが。ご迷惑をお掛けします」
「ご迷惑だなんてとんでもない。私でよかったら、何でもしてあげるから。困ったこと、何もないの?」
「ありがとうございます。毎日食事の準備をしていただいているので、とても助かっています」
本当に明るいおばさんだ。世話好きなのが伝わってくるが、我が家の今の状況からすると、とてもありがたい。それにしても、そんなに付き合いがあるわけでもないのに、どうしてこんなに我が家に献身的にしてくれるんだろう。
そして出かけようとして一階に降りたとき、羽賀さんが目の前に現れた。
「よかった、間に合った。これから奥さんのところですか?」
「えぇ。急にどうしたんですか?」
「奥さんのところに行く前に、少しだけ時間、いいですか?」
「はい。太陽、ちょっと待っててくれるか?」
「うん」
太陽はそう言うと、団地の広場で遊んでいる子どもの方へと駈け出した。
「これから出かけるという時にすいません。どうしても先に報告をしておきたいことがありまして」
「はぁ。どんなことでしょうか?」
私と羽賀さんは、広場の隅にあるベンチに腰掛けて話を始めた。
「例の、太陽くんがケガをさせてしまったお宅のことです。そこの奥さん、どうやら濱田さんの奥さんのことについて、悪いうわさを流していたようです」
「悪いうわさ?」
「以前、万引きで捕まったことがあるとか。保険の契約を取るために、枕営業をしているとか。あきらかに事実ではないうわさを、あちらこちらで話しているらしいんです。そのことを耳にして、奥さんはストレスをためていたのではないかと思われます」
「そ、そんな……紗弓はそんなことしないし、保険だって営業の仕事じゃないから、意味のないことだし。羽賀さん、どうすればいいでしょうか?」
「こういううわさは、悪いことに人に伝わるごとにより悪い方向へとねじ曲げられて伝えられてしまいます。さらに悪い事に、自分と直接関わりのない人の悪いうわさは、それを信じてしまう人が多くて」
羽賀さんの言葉は、私にとっては絶望的なものであった。
「私が、私がそれを訂正させます!」
「濱田さん、落ち着いて下さい。こういうのは当事者が動けば動くほど逆効果になります」
「じゃぁ、どうすればいいんですか?」
「これからボクが言うこと。これをまず信じて下さい。今すぐにどうにかなるというものではありませんが、確実に良い方向へと向かうことができる方法ですから」
「はい、わかりました」
私は覚悟を決めて、羽賀さんの言葉を待った。紗弓のためなら、どんなことでもやってやる。私の心は燃えていた。
「まずは自分の心を曇らせてはいけません。どんなうわさに対しても、腐ることなく、さらに相手に対して立ち向かうわけでもなく。正しい心、これを持ち続けることです」
「正しい心……」
「そう、正しい心です。愚痴を言わない、攻撃しない。どんなことがあっても、まわりの人を愛する心、これを持って下さい」
「なんだか、宗教みたいな言葉ですね。でも、それで本当に私たちは救われるんですか?」
「大丈夫です。実は私が以前指導した会社でこんなことがありました。その会社では、ちょっとしたミスで不良品を世に出してしまったのです。しかし、すでに販売されていたため、その不良品について悪評がインターネットで広がりました」
「それは大変ですね。売り上げに大きく響いたことでしょう」
「はい。会社そのものはとても健全なところなのですが、その不良品のせいで会社そのものに対しても、事実無根の悪いうわさまで広がってしまって」
まさに今の我が家と同じ状況だ。
「その会社、どうしたんですか?」
「まず、不良品のクレームに対しては、真摯に対応しました。もちろん費用は全額負担で正常なものと取り替えて。さらに、お詫びのサービスまで行いました。それだけじゃありません」
「というと?」
「その会社は、前々から地域に対しての清掃活動や奉仕活動も盛んに行っていて。地域からの信頼は高かったんです。その結果……」
「その結果?」
「インターネットのうわさに対しては、その会社のことを知る地域の人、さらには取引業者が徹底して否定をしてくれました。また、不良品が手に渡った人からも、対応がとてもよかったと逆の評価をいただいて。もちろん、社長もしっかりとお詫びのコメントをしながらも、これかも皆さんに喜んでもらえる商品づくりを行うことを伝えたんです」
「なんだかいい会社ですね。私だったらファンになりますよ」
「そうなんです。この件のおかげで、逆にファンが増えて。前のような悪評はどこかに飛んでいってしまいました。ボクはあのとき、今の濱田さんにお伝えしたことを徹底することを指導したんです。どんなことがあっても、まわりの人を愛することを」
「まわりの人を愛する……」
「はい、明朗愛和。愛和こそがすべての幸福のもとである、と」
「明朗愛和」この言葉が私の心の奥の扉を開いた。